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なぜ、科学は発展するのか

 最近、若者の論理思考力や言語能力の低下が、問題視されている。ネットのせいで馬鹿が露見するようになっただけだという意見もあるが、私としては、それは一因でありつつ、確かに思考力や言語能力の低下はあるように思える。

 仮に、思考力や言語能力の低下が実際にあったとするならば、それには原因があるはずである。その原因は、非常に複雑で難解なものだとは思うが、その原因の存在は、逆説的に、現代ではそういった能力が無くても生活がまかり通ることを証明している。例えば、コンテンツの氾濫によって、他人とのかかわりが薄くなることで、コミュニケーションが減り、言語力が低下した、 というのは、仮説としては破綻していないと思うが、これは逆に、他者とのコミュニケーションをとらなくても、精神上の健康が保たれるようになった、とも取れるのだ。

 さて、どんな時代も、「最近の若者」は上の世代に馬鹿にされるものであるわけだが、結局そこには、文明や科学の進歩によって、個人がある能力を持っていなくても、生存できる確率が上がったために発生したジェネレーションギャップがあるように思う。ただし、そうなると次の疑問は社会を維持したり発展させるような人材が、足りなくなって、科学文明が滅びるのではないか というものだ。

 ここでさらに、時代をさかのぼる。当初科学が生まれたのは、人間が安定的に食料を調達する目的のためであるように思う。安定的な、ホモサピエンスという種の存続を目的として、始まった動きであったが、これにより他者から何かを奪う余力が生まれ、他者からの侵略から身を守るために、より効率的な食料の生産によって、自分ないしそのコミュニティを守ろうと発展してきたのが、今の科学文明の基となっていると思う。そしてその流れは、いまだに続いていて、今では武力ではないより効率的な方法で他者を支配するような動きとなっている。 もちろん、これに対抗するには相応の国力が必要なわけで、このために科学技術の発展は、各国が推し進めなければいけない課題なのである。

 しかし、これはすでにその戦を認知している人同士での前提であり、その国民一人一人がその認識を持ち合わせているわけではない。なにせ日本は平和で、自身の身の危険など、微塵も感じる機会が無いからだ。悪く言えば平和ボケしているわけである。

 その中で、自発的に自身の思考力を高め、何か専門性のある学問についての研究をするような人間というのは、気性気質のレベルで「知を愛する人」である可能性が高い。もしかすると、後天的にその喜びを身に着けさせることは出来るのかもしれないが、「これを勉強しないと、アメリカに乗っ取られて、不幸になってしまう!」といった強迫観念じみた思いで勉強をしている人など、恐らく日本中探してもほぼいないだろう。放っておいたら、知能の低下や、科学研究者の減少も、起きて当然なのだ。

 これが、物理的な戦争のあった時代と、そうでない時代の違いのように感じる。直感的でないが故、国民を自由にさせると、科学の発展などできないのだ。 そんなことをしなくても、まあまあ幸せでいられるのだから。

 ここで、最初の問いに立ち返ろう。若者の論理思考力や言語能力の低下が、問題視されている。これは果たして問題か と言われると「国家としては問題であるが、実際に知能の低い個人の存在が、本人にとって問題になりえるか」というと、恐らく問題にはならないのだ。

 とはいえ、私も社会人の一人で、ある会社でその会社の掲げる「理想の未来」を実現するために、日々努力をしている。この未来を実現するために、仲間が必要なのだが、その候補となりえる母数が減る事態はいただけない。自分の将来のミッションは、この「若者が、自己実現のために努力を楽しめるように、その土台を作ること」なのかもしれない。