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オナニーマスター黒沢を読了した

読了と言っても、Webマンガ29巻分なので、大したものでもないのだが、なんにせよ感想を綴っておきたくなった。

タイトルからはギャグ漫画のように思えるかもしれないが、その内容は、主人公の精神的な成長を書いたかなり心に来るストーリーとなっている。

あらすじを書くと、主人公は中学男子で、周りの人がつるんで楽しそうにしているのを、下らないと考えているような人なのだが、色々な経験をして、自分の感情と向き合えるようになった というもの。

この物語、途中本当に心がつらくなるのだが、最後まで読めば、「これでよかったんだ」と思えるようになっていて、

基本、物語というのは、読者に何かを感じさせる、もっと言えば理解させるような働きを持っている。その度合いが大きいほど、多くの人に「良い作品だ」と思われるわけだが、 つまりドラマが必要であり、普通の生活でそれぞれが出会う事象より、オーバーに書かれているわけだが、結局この物語で言いたかったことは「かつての自分がいて、それを否定することは本当に大変なことだけど、その過程を理解してくれる人はいるし、立ち返ればその経験のおかげで今の自分はその時よりも幸せになれたことに気付ける」といった感じだろうか。

この漫画はネットに公開されたもので、2013年とかにはすでにあったのだが、当時のネットマンガを見るような層には本当にブチ刺さっていると思う。それは、自身の罪を公開しようとする時点までの黒沢と、自分(あるいはかつての自分)が重なり、また、黒沢ほどの劇的な行動が起こせなかったからだ。 いや、黒沢の場合は、そのやっていたことが常人には考えられないようなことのため、あそこまでのことをする必要は読者にはなかったはずなのだが、それでも、自分はどうか と考えると、やはり心に来るものがある。

実際、この作品には長岡 と 滝川 という二人の「主人公にとっての救世主」がいるのだが、彼らのような人は現実にはいないという訳ではなく、あそこまで完成されているかはさておいても、そちら側の人間は間違いなくいるのだ。そちら側の人間にとって、この題材は一ミリも理解できないものだと思う。

そして、かくいう自分はどうだろうか。つい先日の記事で「彼女を作ろうと思う」という旨を綴ったわけだが、まあ割とこの黒沢の心の変化に近いものがあるように感じる。そして、この話の最後のほうで、自身の罪を告白した黒沢よりももっと、惨めな思いをしていた女の子に、黒沢は手を差し伸べる。それも恋愛感情があるわけでもないのにハグまでして。黒沢にとっての長岡や滝川に、今度が自分がなる という話なのだが、これほど「いい話」もないだろう。自分もこのようになることで、自分以外の誰かを救えたらよいな と思え、これは自分が彼女を作るために努力をする後押しになるのだ。

だが、一つ重大な欠陥がある。それは、物語という形式で消費して、自覚してしまった以上、自分のこの感情に対して、理知的になりざるを得ない というところだ。自分より酔っている人を見ると酔いがさめる という話に近いが、 メタ認知的に自身の状況を理解してしまうと、理解してしまったこと自体に嫌気がさすのだ。

だって、この作品を見たことで、彼と同じようなことをすることは、「こうすればこうなるからよいのだ」という、内発的でない意思決定をしているに過ぎないわけで、つまり黒沢が心から感じていることを、一枚のフィルターを通してしか感じられないのだ。このメタ構造は、かなり心にくるもので、これを打ち明けたうえで誰かと付き合うというのも、自分のためにしかならず、相手ができなくなりかねないわけだから、勝率が低く褒められたものにもならないのだ。 そこにはあくまで、自発的な感情があってこそ、「いい話」になるはずなのだ。 ここがメタ認知的になったら、それこそまったくもって、オナニーマスターから抜け出せて無いではないかと。

まあ、こんなのは机上の空論で、誰かのことを本当に愛することができたのなら、どうでもよい些細な問題になり下がるのだろうから、大義名分が得られたとして、思う存分、マッチングにいそしめばよいのだと思うことにする。