デートのお金どっち払う問題
最近、また深田えいみさんの投稿によって議論がなされているこのトピック。
デートでサイゼとか、どっちが奢るとか、清潔感大事だから〜みたいな話。大体男VS女の対立構造がわかりやすくできていて、見るに堪えない、議論ともいえないようなものがよくなされている印象。
実は私人、1年近く前に彼女ができて現在同棲中なのだが、それができるまでは正解わからな〜女性の言い分に従って頑張れるだけのバイタリティでやらないとなぁ〜なんて考えていた。が、今となってはある程度整理されたのでその備忘録。
結論は、市場の自動調節機能のようなものが働くから、何が正しいとかって話ではないというもの。
まず大前提、恋愛市場では女性も男性も、付き合う相手が欲しいと考えていて、女性の方がその性質上相手選びに慎重になる。つまり男性は比較的誰でもよくて、女性はその中から相手を選ぶ みたいな構図には必然的になる。
しかし各個人には当然個性があり、男性でも市場価値の高い人は、多くの女性に選ばれ、その中から一番良い女性を選べば良いし、女性でも、市場価値の低い女性は、選択肢が少ないく、他の女性との取り合いに何らかの方法で勝たなければならなくなる。
そういった中で、相手のために自分を高めるとか、シンプルに奢るとかは、相手との関係性の加点要素でしかないと考えると、 そこで見栄を張れば張るほど、良い相手と関係を作れるようになるだけのはずだ。
であればこれはもう、"女子に好かれるにはどうしたらいい"とか、そういうレベルの話であって、”べき論”ではないのだ。
もし、ある女性が、自分はこれだけおしゃれして、相手のために色々しているのだから、奢ってもらえないなんてあり得ないと思うのなら、それで良いのだ。そう自然と思う女性は、奢るべきだと自然に思う男性と付き合えばいいだけの話で、そう思ってくれる男性が少ないなら、自分の高望みで、激しい競争に勝たなければならないだけなのだから。
別にここに性別は関係ない。最初に説明した通り、心理学的に、どちらが選ぶ側になりやすいのかという違いはあるものの、それは初期値の問題でしかなく、 各個人がどんな相手となら付き合いたいかという基準は持っているはずだ。その基準にマッチする相手が多いか少ないか、そしてその相手候補の中で、自分がどれだけの価値なのか、そういったバランスによって、恋愛市場で自由競争は行われているはずなのだ。
その中で、”女性には奢るべきだ”という価値観を持ったひとが、それを発信するのも良いことだろう。 そういうところで加点を狙えばいいんだと思う人もいるだろうし、単に思いやりを持って人と接せる人が増えるかもしれない。言語化されることで共感し良い気分になる人もいるだろう。
結論、身に余る高望みをするやつは自然淘汰によって相手ができないし、多くの相手に望まれることができないやつも相手ができない。それは男女関係なし。
最近のなろうアニメを見て
皆さん。なろうアニメは好きでしょうか。
私は好きです。おおよそのパターンで大体お金がなく、面白いことになっているパターンが多いように感じるが、それを差し引いても結構好きだ。
ではどういうところが好きかというと、そもそもファンタジー物が好きなんだと思う。個人的には「現代の知識を用いて無双している」とか「主人公がとんでもない能力を持っていること」とかは、割とどうでもよく、例えばメイドインアビスとか、ゴブリンスレイヤーみたいなものも好きなのだ。
なろう系アニメと言っても、存外ハードシングスが多いものも結構あって、別に主人公の体験をリアルにしてみたいと感じないことも多い。そして、なんだかんだ言って、面白い物語でありつつ、作者が伝えたいものがそこにはあることが多いと思う。
特に、最近大きな話題には上がらないような作品は、おおよそ「前世の自分の存在や知識」がそこまで重要ではないものが多いと感じている。おそらく表現者は自分の書きたいものを、多くの人に興味を持ってもらうために、導入として異世界転生にしているのだ。 これ、異世界転生である必要ねえなって思うものもまぁまぁある。
逆に、俗っぽい「走り」である、無双系のものの人気はなぜついたのかというと、結局死後の世界や来世に対する期待を持たないと、現世での生活がつらいという現状があるからな気がする。まんまユダヤ教の始まりに合致する。つまり、かつて生活がつらくても、日々頑張って生きていくために信仰を捧げるような人々がやっていたことと、異世界転生ものを見て主人公に感情移入するのは、根本的にはかなり近い性質の感情な気がするのだ。
そう思うと、「色々な物理法則を無視できる」とか「導入が簡単」とか、そういった表現者に対する批判は的外れであろう。ただただ「現代の日本人の深層心理に合った、ビジネスの勝ちパターンを踏襲しているだけ」という構造があるだけだ。
これからも、世の中が良くならなければ、同様の創作物は増え続けるだろう。この社会が「そんな異世界なんてクソじゃん。現代日本のほうが良いに決まっている」と、多くの人間に思わせなければならない。
フェミニズムの対抗勢力がちょっとやばい方向に進んでいそう
すげぇ香ばしい人をみつけた
ベビーカー様は許されない。
— レス男 (@lesso_30175) 2022年1月5日
子供がいれば優遇されて当たり前。
配慮すべきは周りの方。
だって、ママ、ガンバッテルモン。
「それ」はあなたの都合で産んだもの。
エスカレーターに危険物を持ち込まないで下さい。#ベビーカー#ベビーカー様#エスカレーター#ベビーカーは蹴り落としますマーク pic.twitter.com/O5sD2yPZuN
最初の感想は
う~~~~~~ん さすがに怖すぎない?w といった感じ。
一応先に自分のスタンスをはっきりさせておく。僕は男女平等みたいな意見には反対派なのだ。というのも、そりゃ同等の能力を持っている男と女がいたときに、女性だという理由で評価を落とすのは、間違いだと思うが、 例えば「その女性には生理があり、月一で能力が落ちる」という部分を含めたら女性のほうが能力が低いと判断したら、それは男性であるということが理由で優位性を認めても良いと思っている。
でもこれは「国としての発想」ではない。 ここで言う差に忠実に能力給を与えるなら、月に一日だけ能力が半減してしまう人と、常にフルで動ける人の差は月給で1.5%の差しか出ないわけだが、実際にはこの差が原因で就職に失敗する可能性もある。 そしたら月給の差は100%となってしまう。こういった状況から弱い立場の人間を守ることができるのが政治であり、これを守ることで結果的に国全体の生産力が伸びるという構造である と自分は理解している。
また、何かハンデを持っている個人を守る仕組みは、そういった人が守られているという事実そのものが必要な場面が多いだろうとも思う。これは多くの人間にリスクある行動を許し、称賛するための仕組みであるはずだからだ。
ここで、本件に戻る。要するにこれは過度な反発であり、それは何に対してかというと、フェミニズムによる、「女性の権利」や「子どもの権利」といったものが、不当に損なわれている状態に対する反発運動によって、その範囲外の人間の不利益が著しいという事態にだ。ベビーカーが邪魔でエスカレータを歩いて登れないような状況や、「妊婦であるアピールをしているのに席を譲ってくれないクソ野郎がいる」みたいなツイートに対して、嫌悪感を抱いているのだと思う。
気持ちはわかる。障碍者を守ることが必要だというのは、先述のとおりだが、それでも限度というものがある。この限度がない世界は、私が思うに共産主義・社会主義的なもので、 現代の思想に反しているからだ。人によっては、自分の人生に大きな不満を持っており、そういった人々は「自分は超頑張っている。恵まれなくても、どうにか助けを借りずに生きている。なのにもかかわらず、こいつらは幸せそうな顔をして子供を作り、あまつさえ自分に負担を強いるだなんて」という感情をもってしかるべきだ。
これを社会問題としてとらえるならば、この人が悪いというよりかは、社会システムそのものの問題であり、こういった事態が起きないようにするのは個人ではなく国の責任としてとらえるべきのように感じる。
とはいえ、だ。 感情はわかるとはいえ、ここまで攻撃的だと逆に怖い。というか、むしろこの極論的な発信によって、似たような意見を持つ人間が「うわ。。。」と思うことこそが狙いなのではないかと思えるほどだ。 とはいえ、ちょっとツイートをさかのぼる限り、そうでもなさそうで、本気で言っているように思う。(こんなキャッチ―なものを作れるデザイン力があるなら、もっとできることいくらでもあるように感じる)
ただ、だれかがこのような発信をしたということは、発信しない・できない・観測されないだけで、同様の意見を持つ人間はある程度いると考えて差し支えないと思う。ここまでの攻撃性をもった発信をする人を作り上げてしまった責任は、フェミニストや権利団体のようなコミュニティと、この人の広義での「貧しさ」を増長させた社会そのものにあるだろう。 実際これは実世界に損害を与える可能性がありその危険度は「ロリのエロコンテンツの存在が、実在する女性や女児の権利や安全を脅かす」という理論以上のものだと思う。
日本の国民性もあるし、あまり大きな波を生むようなこともないとは思うが、今後も注視していくべきだろう。
議論力たりなさすぎ問題
最近Twitterやらyoutubeを見ていると、論破という言葉をよく見る。おそらく火付け役はひろゆきなのだが、あの人は別にただのお喋りおじさんであって、論破したくてたまらないみたいな訳ではないと僕は思っているの、結局のところ周りがそういう姿を期待した結果であるのではないだろうか。
さて、そういった情勢のせいか、あまり「意味のある議論」がされていないように感じる。あくまで持論ではあるのだが、そもそも議論とは相手を打ち負かすものではなく、お互いの直観をすり合わせることで、なるべく良い結論を導き出し、その結論に至る理由を整理することにあると思っている。そして、最終的には「何と何がトレードオフになるか」「どの部分は誰の責任範囲とするべきか」という2つに落ち着くように思う。そうやって「これ以上の議論はスコープを小さくしない限り、一元的には不可能だ」と結論づくまでが、本来の流れだ。
意味のある議論は、究極的にはそれによって意思決定が行われることに帰着するはずだが、それは議論をする2人以上の人が同一の共同体にいて、足並みを揃える必要がある場合であり、これは現代の「ファッションとして議論」において必要ない。それでも、ファッション議論というのはコミュニケーションであり、自分にないものが得られるという点で楽しいと自分は思うのだが、見ていると勝ち負けでしか語られていないように感じるのだ。
こんなに悲しいことはない。つまり、各々が相手を打ち負かすことで、優位に立つその快感を求めているように見えるのだ。そして往々にしてこういった貧しい精神の持ち主たちは、ノイジーであることが非常に多いのだ。これは、真に議論を楽しむ人が、こういった貧しい精神の人と同一視されてしまう原因となり、加えて大衆ウケも良いと来たら、普通に議論したい人は相手見つけることが困難になってしまう。
相手を否定するための議論を是としない、SNSがあったら、入り浸れると思うのだけどなぁ...自分で作るしかないかなぁ
オナニーマスター黒沢を読了した
読了と言っても、Webマンガ29巻分なので、大したものでもないのだが、なんにせよ感想を綴っておきたくなった。
タイトルからはギャグ漫画のように思えるかもしれないが、その内容は、主人公の精神的な成長を書いたかなり心に来るストーリーとなっている。
あらすじを書くと、主人公は中学男子で、周りの人がつるんで楽しそうにしているのを、下らないと考えているような人なのだが、色々な経験をして、自分の感情と向き合えるようになった というもの。
この物語、途中本当に心がつらくなるのだが、最後まで読めば、「これでよかったんだ」と思えるようになっていて、
基本、物語というのは、読者に何かを感じさせる、もっと言えば理解させるような働きを持っている。その度合いが大きいほど、多くの人に「良い作品だ」と思われるわけだが、 つまりドラマが必要であり、普通の生活でそれぞれが出会う事象より、オーバーに書かれているわけだが、結局この物語で言いたかったことは「かつての自分がいて、それを否定することは本当に大変なことだけど、その過程を理解してくれる人はいるし、立ち返ればその経験のおかげで今の自分はその時よりも幸せになれたことに気付ける」といった感じだろうか。
この漫画はネットに公開されたもので、2013年とかにはすでにあったのだが、当時のネットマンガを見るような層には本当にブチ刺さっていると思う。それは、自身の罪を公開しようとする時点までの黒沢と、自分(あるいはかつての自分)が重なり、また、黒沢ほどの劇的な行動が起こせなかったからだ。 いや、黒沢の場合は、そのやっていたことが常人には考えられないようなことのため、あそこまでのことをする必要は読者にはなかったはずなのだが、それでも、自分はどうか と考えると、やはり心に来るものがある。
実際、この作品には長岡 と 滝川 という二人の「主人公にとっての救世主」がいるのだが、彼らのような人は現実にはいないという訳ではなく、あそこまで完成されているかはさておいても、そちら側の人間は間違いなくいるのだ。そちら側の人間にとって、この題材は一ミリも理解できないものだと思う。
そして、かくいう自分はどうだろうか。つい先日の記事で「彼女を作ろうと思う」という旨を綴ったわけだが、まあ割とこの黒沢の心の変化に近いものがあるように感じる。そして、この話の最後のほうで、自身の罪を告白した黒沢よりももっと、惨めな思いをしていた女の子に、黒沢は手を差し伸べる。それも恋愛感情があるわけでもないのにハグまでして。黒沢にとっての長岡や滝川に、今度が自分がなる という話なのだが、これほど「いい話」もないだろう。自分もこのようになることで、自分以外の誰かを救えたらよいな と思え、これは自分が彼女を作るために努力をする後押しになるのだ。
だが、一つ重大な欠陥がある。それは、物語という形式で消費して、自覚してしまった以上、自分のこの感情に対して、理知的になりざるを得ない というところだ。自分より酔っている人を見ると酔いがさめる という話に近いが、 メタ認知的に自身の状況を理解してしまうと、理解してしまったこと自体に嫌気がさすのだ。
だって、この作品を見たことで、彼と同じようなことをすることは、「こうすればこうなるからよいのだ」という、内発的でない意思決定をしているに過ぎないわけで、つまり黒沢が心から感じていることを、一枚のフィルターを通してしか感じられないのだ。このメタ構造は、かなり心にくるもので、これを打ち明けたうえで誰かと付き合うというのも、自分のためにしかならず、相手ができなくなりかねないわけだから、勝率が低く褒められたものにもならないのだ。 そこにはあくまで、自発的な感情があってこそ、「いい話」になるはずなのだ。 ここがメタ認知的になったら、それこそまったくもって、オナニーマスターから抜け出せて無いではないかと。
まあ、こんなのは机上の空論で、誰かのことを本当に愛することができたのなら、どうでもよい些細な問題になり下がるのだろうから、大義名分が得られたとして、思う存分、マッチングにいそしめばよいのだと思うことにする。
自分の弱点に気付いた話
私は、別に勉強ができる人間という訳ではない。これは、じゃあ自頭が良いといいたいのかと聞かれることもあるがそういうわけではなく、勉強ができるわけではないという、ただそれだけなのだ。
ただ、この「わけではない」には、間違いなく次に「しかし」と続くだろう。ここで自分のことを立ち返って考えてみる。
今までの人生で、色々な人と出会い、コミュニケーションをとってきた中で、自分の思考が、どうやら平均から乖離しているらしい ということを感じてきた。人からは頭が回るとか評価されがちなのだが、別に必ずしもそうと自分を評価しているわけではなく、あるときは「お前どんくさすぎかよ」と言われたこともあった。
つまり、良し悪しではなく、異質なのだ。そして、今日なんとなく一つその異質さを説明できるような気がしたから、備忘録的に残しておくことにした。
私はきっと、心配性なのだと思う。何をやっていても、色々と細かいことが気になってしまうという性格をしている。厳密性を重要視しているといってもいいかもしれない。そして、厳密には分かりようのないものがあったり、ひとつひとつを検討することがほとんどの場面で利益に結び付かないことも、理解している。 そのうえで、対面することになった問題にたいして、 そういった部分を含めて俯瞰的な把握をできないと気が済まない性格なのだ。
私は、仕事で分析を行っているのだが、比較的大きな粒度の問題を解決するための分析の計画を立てそれを実行し、結果から考察をし という流れの中で、どうしても、細かい疑問点が都度湧いてしまう。 そこまではいいのだが、問題はその続きで、これは本来大筋としての目的を達成するために、どのような理由で、解決することが求められるのかを、常に頭に入れた状態で議論を進めなければいけない部分なのだが、自分はその「大前提を保持したまま考える」能力が十分ではないのだと思う。まぁ恐らくそういった能力がそもそも必要になる人は少なく、いても難易度は客観的に高いと思うので、自分がこの点において平均以下であるとは思わないが、なんにせよ不十分ではあるのだ。
要するに、細かいことが気になってしまい、ふと深堀してしまう性格そのものが、問題解決の高速化にとって悪影響を与えていると思うのだ。これが自分の思考の弱点なのだろう。
そして、これは、勉強ができないということにもつながっているように感じる。高校までの勉強内容は、体系的な把握よりも、その後の専門性の高い内容を理解するために必要な前提知識を身に着けることを重要視している。確かに、教科書のそこまでの内容を理解していれば、その項の内容が理解できない という事態は発生しないようになっている。が、それぞれの理論が連結しないために覚えづらく、面白くない。そのため、よくある「この勉強は将来何のためになるんですか?」という質問が生まれるわけで、心から楽しめる人など自力でその勉強の適応先とリンク付けできるような人間だけなのだ。そしてこれは私の性格と非常に相性が悪い。大学に入るまでは「言われたことを努力できること」が評価されるのだなと、強く感じる。 ここまで整理すると「アメリカは入学より卒業が大変」という意味も理解できる。
さて、この細かいことが気になってしまう性格は、恐らく気質的な部分だと思う。それによって、脳をトレーニングして、その部分のシナプスを強化してきしまったがために、今があるような気がする。つまり、変えようと思って帰られるものでもないのだ。今こうやって文字起こしをしようとすることさえ、このシナプスの強化に当たる行動なわけだし。
では、弱点が明確化したわけだが、ソリューションはあるだろうか。結局、脳内での思考の際、そこには口頭でのコミュニケーションが付属することもあるが、大筋からずれない範囲での思考ができるようにならなければいけない。基本的に自分の思考順序は「今、こういった問題に気付いた」「似たような問題はないか」「実際それによる影響はどうか」「この影響に関して、ほかの要素の影響はあるか」といった順番が多い気がする。 つまり、ネストが深くなるのだ。
...これマインドマップ的にまとめる癖付けてみるのが早そうじゃね? 明日からやってみよう。
なぜ、科学は発展するのか
最近、若者の論理思考力や言語能力の低下が、問題視されている。ネットのせいで馬鹿が露見するようになっただけだという意見もあるが、私としては、それは一因でありつつ、確かに思考力や言語能力の低下はあるように思える。
仮に、思考力や言語能力の低下が実際にあったとするならば、それには原因があるはずである。その原因は、非常に複雑で難解なものだとは思うが、その原因の存在は、逆説的に、現代ではそういった能力が無くても生活がまかり通ることを証明している。例えば、コンテンツの氾濫によって、他人とのかかわりが薄くなることで、コミュニケーションが減り、言語力が低下した、 というのは、仮説としては破綻していないと思うが、これは逆に、他者とのコミュニケーションをとらなくても、精神上の健康が保たれるようになった、とも取れるのだ。
さて、どんな時代も、「最近の若者」は上の世代に馬鹿にされるものであるわけだが、結局そこには、文明や科学の進歩によって、個人がある能力を持っていなくても、生存できる確率が上がったために発生したジェネレーションギャップがあるように思う。ただし、そうなると次の疑問は社会を維持したり発展させるような人材が、足りなくなって、科学文明が滅びるのではないか というものだ。
ここでさらに、時代をさかのぼる。当初科学が生まれたのは、人間が安定的に食料を調達する目的のためであるように思う。安定的な、ホモサピエンスという種の存続を目的として、始まった動きであったが、これにより他者から何かを奪う余力が生まれ、他者からの侵略から身を守るために、より効率的な食料の生産によって、自分ないしそのコミュニティを守ろうと発展してきたのが、今の科学文明の基となっていると思う。そしてその流れは、いまだに続いていて、今では武力ではないより効率的な方法で他者を支配するような動きとなっている。 もちろん、これに対抗するには相応の国力が必要なわけで、このために科学技術の発展は、各国が推し進めなければいけない課題なのである。
しかし、これはすでにその戦を認知している人同士での前提であり、その国民一人一人がその認識を持ち合わせているわけではない。なにせ日本は平和で、自身の身の危険など、微塵も感じる機会が無いからだ。悪く言えば平和ボケしているわけである。
その中で、自発的に自身の思考力を高め、何か専門性のある学問についての研究をするような人間というのは、気性気質のレベルで「知を愛する人」である可能性が高い。もしかすると、後天的にその喜びを身に着けさせることは出来るのかもしれないが、「これを勉強しないと、アメリカに乗っ取られて、不幸になってしまう!」といった強迫観念じみた思いで勉強をしている人など、恐らく日本中探してもほぼいないだろう。放っておいたら、知能の低下や、科学研究者の減少も、起きて当然なのだ。
これが、物理的な戦争のあった時代と、そうでない時代の違いのように感じる。直感的でないが故、国民を自由にさせると、科学の発展などできないのだ。 そんなことをしなくても、まあまあ幸せでいられるのだから。
ここで、最初の問いに立ち返ろう。若者の論理思考力や言語能力の低下が、問題視されている。これは果たして問題か と言われると「国家としては問題であるが、実際に知能の低い個人の存在が、本人にとって問題になりえるか」というと、恐らく問題にはならないのだ。
とはいえ、私も社会人の一人で、ある会社でその会社の掲げる「理想の未来」を実現するために、日々努力をしている。この未来を実現するために、仲間が必要なのだが、その候補となりえる母数が減る事態はいただけない。自分の将来のミッションは、この「若者が、自己実現のために努力を楽しめるように、その土台を作ること」なのかもしれない。