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差別をなくそう(?)

最近、ついったーで黒人差別に対するデモ等の動画やツイートが結構流行っているように感じる。恐らく、日本人は国外に出ず、民族も一つしかないといって差し支えないので、こういった問題には疎いのだが、それでも、「何か社会に問題があり、自分たちがそれに不満をも感じているなら行動をしなければならない」という主体性の大事さみたいなメッセージを感じることはできるだろう。

同様に、「女の子らしい」という言葉についての、気持ち悪さみたいなことも、最近はやった気がする。レイシズムフェミニズムのような思想に関する、もっと言うなら、多くの人間が当然のように持っている意識の問題だからこそ、その話題に乗っかる人が多いし、流行るのでしょうね。

さて、ここがことの本質に感じる。差別というのはそれが人種であろうが性別であろうが、何かしらの「差」を理由に、それ以外の個人の特徴を評価しないということになると思う。その「差」となる特徴を持つ集団を卑下して、尊重しようとしない。まるで犯罪者を扱うように。

この本能は生物として仕方がないことだ。知的生命体としての学習そのものといってもいいと思う。ある特徴を持っているものが、自分にとって不利益な特徴を持っていることが多い場合、人間は”その特徴を持つ人間とは関わらないようにしよう”あるいは”排除しよう”と考える。経験的なものもそうだし、推理や知識によるものもそうだ。

例えば、女性が卑下されてきた背景には、女性は労働力として男性より劣っているためだし、黒人が卑下されたのは、白人のほうが文明の発達が早かったため、黒人のほうが弱く頭が悪いとされた(鉄 銃 病原菌とか読むと良い)からだろう。だが本当は女性が男性より向いていることもあるし、白人より黒人のほうが向いていることもあるというのは、現代人なら当然わかっている事実だろう。

それでも、そういった事実を認知しないと、ただ常識を否定するだけになってしまう。男尊女卑反対!!みたいな意見の良くない部分はそこだ。そういった理論的な考えが介在しないように見える、ただ自分の評価が悪いのが社会のせいだみたいな意見は、気持ちが悪い。

では逆に、差別することは絶対悪なのか。恐らくそんなことはない。犯罪者が社会的に生き辛くても、”刑期後の犯罪者にまともな人権を!!”なんて言う意見に多くの人は賛同しない。 犯罪をしでかした人間が将来同様のことをする可能性があるというのは、されてしかるべきだ。それくらいの覚悟をもって犯罪をしてほしいものだ。また、力仕事をする職場で能力給が払われているとしたら、必然的に男性より女性のほうが平均給料が低いだろう。当然だし、これについて喚いても仕方がない。

そして、差別というのは、常識の中に紛れているからこそ、社会問題として指摘される。つまり、差別は世の中にいくらでもあって、その中で自分に関係するものについて、差別されたことを怒るという構図となるのだ。ある個人が不当な評価を受けているならそれは差別ではなくただのいじめだし、共感して立ち上がる人なんているはずがない。

ただ、そうした差別の被害を受けた人は、他人を差別しないと思われがちだが、本当はそんなことはなく、また他人を不当に脳死で評価することがある。それを全員が認知するのは厳しい。結局、個人的な感想としては、環境を変えるのは、同じ境遇の人間を助けたいという熱い意志を持っている人がすることで、自分や近しい人間だけを守ろうとする人は、そんなことをするよりも、自分の能力を高めて、周りではなく自分を変えて、否が応でも認めさせるほうが生産的だ。 個人のためと言うより世界のために。