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最近はやりのある曲について 世間が思っているより共感できない話

最近、Adoという方のうたう「うっせぇわ」という曲が流行っている。

僕自身、この曲を知ったのは友達がカラオケで歌っていたからであって、「あぁボカロみたいな曲だな」と結構前に感じたことを覚えています。

そう。この曲実は投稿は去年の10月なんですよ。 最近というかここ1か月くらいで急に流行りだしてなんか不思議な気分ではあったんですけど、まあそんな話はそんなに重要ではなくて、今回話したいのは、なんで多くの人間に支持されているのかという部分の話です。

歌がうまいとか、曲(メロディー・リズム・コード・音像等)がいいだとか、恐らくそういうことは些細な事なんですよ。といっても、Adoさんの「エネルギー」には心打たれるものが皆あったのかもしれないけど。
で、色々な考察記事みたいなのが出回っているのを見かけると「歌詞への共感」がやはり支持の理由であったりするのだろうなと思うわけです。

この曲で恐らく言いたいことというのは、日本で教育を受けてきて、それなりに甘やかされつつ、いい子に育つことを暗に強要されてきて、社会人になってもやはりそれは同じで、当然のルールとされているくだらないものに自分が従わなくてはいけないということが、いやでいやで仕方がないということだと思う。

気持ちはまあまあわかる。私も、ちょっと前の記事で書いたように親が嫌いだし、それは本人たちにそういう感情を打ち明けられていないからこじらせてしまっていることを自覚している。だが「うっせぇわ」とはならないのだ。

なぜなら、自分の場合は、相手の言っていることが相手の立場からして妥当であることは分かるからだ。何より、相手の指摘は、正しいとかそういう話抜きに「相手が感じたこと」であることは違いないのだ。この事実だけは何であれ変わらないし、「うっせぇわ」と吐き捨てるのではなく、何らかの形で向き合うべきだと思う。

例えば、後輩社員が焼き鳥を串から外す作業を渋って上司に指摘された場面があったとしよう。こういう場面で後輩社員は「何でやらないといけないんですか」と言えばいいのだ。 

もし、そういうことが言えないのだとすればそれはあなたが自分の能力に自信がないということだと思う。つまり、そういう発言をしてしまうことで、その上司なりなんなり自分を評価する人にとって自分の印象が悪くなることを怖がっているということだ。だとすれば、この曲の歌詞に出てくるような「ちっちゃなころから優等生」というのが嘘になる。最低限、この曲を指示する人間は自分にある程度の自身があるはずだ。そのくせ、いや、だからこそかもしれないが、優等生であることを強要されてきたことで、自分の意見が面と向かって言えないようになってしまっているのかもしれない。

そもそも、こういう摩擦が起きていることに対して、その原因を探る姿勢があまりにも足りない。だって普通上司と自分で思っていることが違ったら、客観的にどちらが正しいのか、本当にどちらかが嫌な思いをしないといけないのか、なぜこんな認識の違いが生まれたのか、そういうことをまず考えようとはしないのだろうか。

私は優等生である自覚も、自分の能力に対する自身も、持ち合わせていないので、この曲にはあまり直感的に共感できないのかもしれない。