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人を嫌う心理と、それを相手に伝える必要性

あなたは誰かに嫌われたり、嫌ったりしたことはありますか?私はありますが、その回数は一般より少ないと自負しています。あとは、単純に自分の生活に余裕がなくてイライラしてたっていうのもあったとは思っています。あとから思い返すと大したことなかったなって思うようなことで、人を嫌ったということですね。

さて、人をなぜ嫌うのか考えたことはあるでしょうか。思うに要因は2つあって1つは本当に相手が自分に対して有害な存在な場合。もう一つは相手を嫌うことで自分の精神衛生を保つときでしょう。

前者は大体ただの価値観の違いから相手の行動が許せないとかそういう程度のもので、あまり攻撃的にならずに「距離を置こう」ってなるタイプの物が多いと思います。もうちょっと程度の強いものだと、「金をとられる」とか「殴られる」とか、そういう行動をとってくる人間に対する自衛の感情や、「親身に接してあげたのに裏切られた」とか。嫌うというほどではないものも多いでしょう。

では、後者はどうだろうか。よくツイッターで見るお金儲けをしている人に対する批判は恐らくこの部類だ。自分はお金に余裕がなく、そんな自分が嫌いになってしまうことを避けるために「自分はお金なんていらない」と思い込みたいがために、「お金を儲けている人は悪」として批判をしているのだ。有名人や政治家、芸能人などに一定数のアンチがいるのは、その人のことを知った人のうち一定数、その人の持っている何かをコンプレックスにしている人がいる、という意味なんだと思う。

ほかにも「最近の若者はすぐに楽しようとする」みたいな、”自分がした苦労を同じ身分の他人もしないと納得できない”みたいな感情も、同様のものだと思う。

自分がだれかのことを、自分のために嫌ってしまったとき、そうやって冷静に分析をしてしまうと、自分はなんて弱く汚い人間なんだと考えざるを得ないのだ。そうやって自分と向き合える人間は最初からそんなことはしない気もする。でも精神的な余裕がなければ、そういったことも難しい。何かに理由があって嫌悪を感じるようなことがあれば、それに関係のない誰かと相談するというのは、結構理にかなった選択ではあると思います(ただし相手は選ぶこと。同調されてしまっては意味がない)

それで、まぁその怒りや嫌悪が正当なものである場合というのは前者のものに限るということが分かったところで、今度は、それを相手に伝える意味はどういったものなのかを考えてみる。一番わかりやすいのは「政治批判」だろうか。例えば新しい施策によって、不利益を被ったとしよう(消費増税とかね)。このとき政府を批判する権利も意味も恐らくあるだろう。自分が苦労しているのと同様の苦労を強いられている人間がほかにもいる可能性は高いわけだし、施策によって強いられた負担とトレードオフになるような利益が享受できないなら、そりゃ腹は立つ。

では、小さいコミュニティ内や、SNSではどうだろうか。明確に人に迷惑かけている場合を除いて、相手を批判する必要性はあるだろうか。答えはNoだ。自分が相手に対して行った批判や妨害行為は相手の不利益になる可能性がある。それはもしかすると相手だけではなく、社会の不利益かもしれない。例えば、人気な漫画家がいたとして、その人が殺人予告によって漫画の続編が出せなくなってしまったら、その漫画を読むことで幸せになれた人の幸せをも奪うことになるわけだが、その責任を取ることはできるのだろうか。とれる自信があるならいいが、そうでないならするべきではない。これは訴えられることはないからとかそういう話ではなくて、良心の問題でだ。

余談だが、私は「ありがとう」はとりあえずで言うが「ごめんなさい」はなるべく言わない。これは、言われてもうれしいことではない(主観)し、発言そのものによって相手が自分を許すわけでもない、自分を許すためだけの言葉なのだ。自分より相手を基準に発言の仕方を選ぶというのはそういうことだ。

僕が今まで生活してきたコミュニティの中で、相手の心情を理解しようとして、予想の中ででもそれを考慮に入れて行動している人があまりにもいない。大したサンプル数ではないものの、恐らく日本全体でそうなんだろうとも思っている(人種が変わってくると違うかもしれないという意味)。人間関係というのは悪いより良いほうが自分にとってもいいに決まっているのにだ。いるのか知らないが、このブログを読んでいる人でここまで読んで何か反省する要素があったのなら、そういうことを考えるといいのかもしれない。