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信じるとは何か

信じるという言葉がある。 最近SNSで、芦田愛菜ちゃんがなんかのイベントでしたコメントが話題になっているらしい。

本人の言いたかったことを本当に正しく解釈で来ているのかは定かではないが、信じるというのは、相手ではなく自分自身の勝手であり、裏切られたというのも見えない部分が見えただけであって、勝手に幻滅しているだけ。 というのが、その意見らしい。

なんというか、年齢相応の意見だとは思わないが、 年齢というバイアスを除けば、別にいいことを言っているような気もしない。至極当然なことを言っているな。別に急に話題になる程のことではないな というのが個人的な感想だ。

ここでちょっと「信じる」という言葉の意味をネットで調べてみると、「どうやらそのことを本当だと思う。疑わずに、そうだと思い込む。信仰する」 と出てきた。(そもそも言葉としての基本形は「信ずる」らしい。個人的にはこっちのほうが芦田愛菜のコメントよりよっぽど目から鱗だった)今回の場合は宗教的な意味での信じるは無視して「信じる」とはどういうことか、考えてみる。

自分にとっての信じるという言葉を定義すると、「確かではないものを根拠に、相手の発言等を暫定的に本当だと思うこと」だと思う。確かではない根拠というのは、今までの実績であったり、何かしらの信頼関係であったりするわけだが、ここで重要なのは、「疑わない」という部分の性質だ。確かに、相手の発言を嘘だと思っているわけではないのだが、嘘であることを一切可能性から排除しているわけでもないのだ。

相手が意図して隠してようがたまたま自分が見落としているだけだろうが、 意図的に陥れようとされていようがいまいが、そんなのは関係なく、「相手を信じる自分を信じて、その判断をしたことに自分で責任を取る覚悟ができる」というのが、信じるということだと思うのだ。

つまり、裏切られた時というのは自分の見立てが甘かった時であるわけだ。ここに関しては芦田愛菜ちゃんの意見と相違はない。ただそもそも、例えば自分が好きな相手が、相手も自分を好きだと思っていたら、本当は違かったとき、もちろんメンタルは沈むが、当然その理由は「騙しやがって」ではなく「なんで舞い上がっちゃったんだろう」みたいな方向性だと思うのだ。少なくとも自分はそう思う。だから、 この芦田愛菜ちゃんの意見になんの聡明さも目新しさも感じないのだ。それはそうだろって感じ。

ちょっとビジネスよりの話をすると、私は新卒会社員なのだが、部長には「君たちには結構な責任になる部分を任せているが、それは君たちの尻拭いならできると俺が思えるだけの能力があることを知っているからだ。」と言われている。正直しびれた。これがいわゆる大人の世界の信用なんだなと思った。