ラバーダッキングするブログ

脳みそ垂れ流しブログ

高度に成熟した社会で、自殺するべき人間はいないのか

私は、自殺はよくないことだと思うが、安楽死は認められるべきと考えている。 一見、矛盾した考えのように思えるかもしれないが、同じように考えている人も少なくないと思う。 ここではあえて、自殺と安楽死の違いに関しては言及しない。

安楽死を認めることは難しいという話を聞く。その理由は、2つあり、一つは、人を死にたいからと言って死なせるのが医療ではないという点。もう一つが、死ぬ選択が許されている人間が生きる選択をとることが、人によっては難しいのではないかという懸念だ。今回は、特に前者について、深く考えてみたい。

死にたいといっている患者を死なせることが、医療ではない。これはすごく立派なことだと思う。そう考える患者の精神をケアして、生きる希望を与えることが、医師の仕事なんだというが、これはつまり、死んだほうが良い人間などそもそも存在しないという意味であり、 本人の意思を含め、損得勘定的には死んだほうが良いかもしれないけど、ルールがそれを認めないというケースがそもそも存在しないという言説になる。

確かに、運動能力をほぼ失った人間は、あとは知的活動以外に、人間らしい活動をできる部分がないが、 頭を動かすことで、世界にコミットできる可能性が一応残されている。別に新しい数学の公式を作れとかそういう話をしているわけではなくて、芸術方面でもいいとは思う。 ブレインマシンインターフェイスなんてものが開発され始めているのだから、そういった人間の、生きる価値というのは、割と簡単に与えられるような気もする。寝たきりになっても、生きる意味がある可能性は否定できない。

では、認知症等の場合はどうだろうか。 体を動かして社会に利益をもたらすことも、知的活動によって、社会に利益をもたらすこともできない。 果たしてこういった人間を延命させることに、社会にとって価値があるのだろうか。勿論、本人やその家族がお金を持っていて、十分入院させることが可能なら延命させたっていいかもしれない。だが、その延命によって救われた魂があっただろうか。 確かに、今後全くそんなことがないとは言い切れないが、今のところ、重度の認知症から復活して普通の生活に戻ったなんて話はあまり知らない。 少なくとも、自分がその立場になったとき、復活できる可能性なんて考えはしない。

 つまり、 公共の福祉の最大化を考えたときに、 死なないほうが良いことを否定できない人間が、一定数いるのだ。少なくとも、今のご時世で安楽死を望む人間は、自分自身をそう見ている。そういった人を死なせることが、ルールとして認められていないという理由だけで、延命することを強要させられるのだ。

よくよく考えて、本人や、家族にお金がない場合、 患者を生き延びさせることは事実上不可能だ。 ホームレスが仮に救急搬送されたとして、身元を預かるような人間がいなければ、病院が一方的に負担を背負う形になってしまう。いくら国による支援があるといえど、これでは立ち行かないし、間違いなく、高齢社会でこの状況は破綻する。そういう場面で、”家族に負担をかけるだけだし、生きているだけ体が痛くて辛いし、ここから回復する見込みもないし、死んだほうがまし”という思いを、カウンセリングなどの方法で解消してあげることができるのだろうか?場合によっては可能かもしれないが、すべてに対してそれが可能とは、到底思えない。いくら崇高な意識があっても、実際問題不可能なのだ。

延命をしなければ1年で死ぬ。 1年の間に病を治せるような開発がされる確率は極めて低いし、恐らく実証実験などの様々な過程を踏んでいる時間すらない。そんな人間をあと1年間、生き延びさせることに、生き延びさせてもらうことに、どんな意味があるのだろうか。おそらく、限りなく何の意味もない。

つまり、自ら命を絶つことを認めることで、得られる利益が国にはあるし、認めないことで、国の負担は増えるのだ。 財政危機だなんだと、喚くのであれば、生き延びることで経済効果を生み出さない因子には死ぬことを認めても、そう悪くはないのではないだろうかと、私は思う。