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人を動かすということ

「誰かの気持ちを動かそう」とか「感動させよう」とか「何かしてもらおう」とか、人の気持ちを変えさせるというモチベーションがあまり好きではない。

相手のためにもなるというなら、それは一理ある。しかし、そのモチベーションが相手主体であるなら、かなり気持ちが悪い。相手の考えが変わったりすることで、お互いWinWinの状況で初めて成立することなはずだ。

例えば、何か商品の広告を打って、人の購買意欲を掻き立てるのは、買ってもらえば自分の利益になるし、買った側は払う金額より得られる見返りの方が大きいから買うはずである。そのような関係であるなら、相手に理解させる努力というのは価値がある。

しかし、相手のためだけとなるなら、それはとてつもなく気持ちが悪い。ただのいいひとということになる。そんなことをモチベーションに生きるのは厳しいし、理解できない。お金に余裕があるならまぁそういうことしてもいいかもしんないけど、多くの人間に求めることでは少なくともない。

そして、自分のためだけにする行為だとすれば、それはただの押し付けかあるいは詐欺だ。そう思っていなかったとしても、実際に自分にしか利益がないならそうなる。

他人の気持ちを動かそうだなんて傲慢なのだ。そこに主たるモチベーションがある時点で不純だ。例えば「政治に参加して、自民をやめさせようぜ」という言葉は「自分が参加してもどうせ意味がない」とか「アベのままでいい」とか、そういった言葉に跳ね返されることが多い。しかし、この言葉の求めるところというのは多分「自分で考えて、投票先を選べ」という意味であり、これは非常にエネルギーのいることなのだ。自分の1票に価値がないと思わない。応援したい政党が見つかればそこに投票したいと思いもする。しかし、「応援したいようなまともな政党がいる可能性がどれだけあるのか」、「マニフェスト通りに政治をするのか」、「自分の投票に価値があるとはいえ、それに勝る価値があるのか」「自民がやったほうが政治に慣れているのではないか」「汚職なんてどうせみんなしてるんだから興味ない。全部はつぶせないのだから」「参政権は権利であり義務ではない」そんなこと考えている人は多いと思う。もし、そういった人にとって積極的に政治に参加する価値が生まれるとしたら、「政治の結果生活が苦しくなる」か「確実な代替案が生まれる」のどちらかだろう。

だから、「政治に参加して、自民をやめさせようぜ」はダメなのだ。「政治に参加させてOO党を応援して政権とってもらおう」が正しい。モチベーションのありかはそこにあるべきなのだという話でした。