ラバーダッキングするブログ

脳みそ垂れ流しブログ

大学を卒業したので今まで学校で学んだことを考えてみる

最近、世界中コロナコロナでもうすごいですね。この前電車乗ったら普通に通勤の人大量にいたので、意外と大したことないとも思いますが。まぁこんな状況だと、煽りを受ける仕事も多いわけですが、学校というのもその一つだと思います。4月の授業ががまともにできないかもしれないようですね。とういうことで、今まで大学に限らず、自分は学校で何を学んできたのか、どんな意味があったのか、ということを考えてみることにする。

まぁここまで生きてきて、次のステップは”社会人”なわけですが、ここまでくると、もう個人というのは形成されていて、そういう人同士でコミュニケーションをとりながら何かしらで価値を生み続ける必要があるわけですが、そのために一番直接的な部分を多くの人間は大学で”専門的な知識”として学ぶわけです。そして高校を卒業するまでに、(正しくは大学に合格するまでに)自分のやりたいことをしっかり考えてそれに合った大学(ないし学部や学科)を考えて、そこに合格するために必要な勉強を高校ではします。中学以前は、まぁ与えられた課題をより高い評価でクリアすることだけを考えるでしょう。

こういう考え方をすると、五教科以外の勉強はいらない。なんて考え方もあるのかもしれないですね。だがそういうわけにはいかない。

実技教科やその他のイベント、部活動というのは、それはそれで必要なことなはずです。それを否定するなら高校からは通信制高校に行くことになるし、中学までだって、映像授業で十分でしょう。十分に技術が発達すれば、個別の教員に教えさせるよりも、偉大な先生がレベルごとに映像を作り変えてすべての子供を教えるほうが国内平均的に学力は高まると思っている(映像というかホロ授業?)バーチャル登校して、電脳世界でAIの先生に授業を受けるわけだ。 あ、これ普通にクラス単位での授業ができそうじゃん

閑話休題。学校という空間が子供に教えることというのは根本的には「生きるのに最低限必要な知識」「自分の体を守るための体つくりと体の動かし方」「共同体で生活するとはどういうことか」に大きく分けられると思っています。中学校までが義務教育となっているのはそういう意味でしょう。特に3つ目、社会性をはぐくむというのはいじめなんかも全部込みで子供であるあの時期に経験することにこそ意味があります(僕は当時軽度なものではあったがいじめられていた。)。いじめにフォーカスするならば、子供のころだからこそ大人は解決を手伝ってくれてその方法を学ぶことができるし、自分がいじめられる体質であるならそれを回避する身の振り方も覚える。必然的に他人の人間性を探るような観察眼も育つわけで、これは社会人になろうが必要な問題解決力なわけだ。社会性とはそういうもので、勉学なんかよりよっぽど大事なはずだ。

部活動にも大きな意味があると思います。学校の先生(あるいは先生になる人)の知り合いが多いと、部活の顧問が大変で大きな負担になっているということは知っているし、今と同じ状況で続けるべきだとも思っていませんが、それでも部活動というのは子供にとって大きな意義があります。

ぶっちゃけ、子供のころは勉強が必要なことだというのはわかったけど、文化祭のような特別活動や部活(あと体育の授業とかもだけど)なんてものがなぜ必要なのかわからない節があった。当然だろう。みんな冷静になんでこの活動が必要なのか考えてやっている人はいない。でも楽しいから積極的に動く。だから大人が与えてあげなければいけないのだ。そういう共同体ならではの経験をさせてあげることが学校という場所に子供を集めて教育する一番の意義なはずだと私は思っている。