発言力のある人間の責任
みなさん、テレビ局には公正な放送をすることが義務付けられていることをご存知でしょうか。新聞は別にいくらでも偏向していてもそれは表現の自由なのですが、テレビは誰でも(地上波の民放は)金を払わずに見れて、動画という頭に入りやすいメディアであることから、そういった義務付けがされているようです。
ここで、ネットの様々な種類の記事についてもどうかを考えてみる。政治、科学、ビジネス、芸能、スポーツ、どんなものでもいい。大体の人間がスマホで見るのだろうから、動画を流すことも出来るし、フルカラーで無料だ。文字だけのものはまぁほぼないだろうし、twitterでも流れてくるあたり、性質としてはテレビに近いと思う。テレビとの違いは見る人間がより大量にいて、記事も大量にあるというところだろうか。
こうなったときに、大手の記事を発信する人間がある程度生まれるわけである。人なのいか法人なのかはこの際考えないとしよう。んで、そういった記事を書く人間には責任があるだろというのが今回の主題です。
どういうことか、人を信用させたらあとに、悪意を持って世論を扇動できるということだ。突飛な話だが、水素水を買わせるとか、そういう方向にも使えるだろう。
残念ながら、どの国でもそうだとは思うが、民衆の大部分は馬鹿なのだ。どうやら日本のメディアリテラシーはアメリカを始めとして先進国の中ではかなり低い方らしいが、 「馬鹿を先導したものが指導者になる」といわれているように、読み手の責任にするのはいかがなものかと思う。
民衆を食い物にして自分だけ良い思いをしようと思っている人や、毎日新聞のwaiwai問題的なことをやらかす人が記事を書いているなら、まぁ理解できる。ただ、そんなこと考えていないのに結果的にそうなってしまう危険性を大いに孕んでいるし、意図的に悪意を持って記事を書く人間を糾弾しづらくなってしまう。責任を持てというのはそういうことだ。
専門的なことを書くなら、ある程度の知識を持って、論理の破綻がないような記事をせめて書いて欲しいものですね。