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恋愛に対する考えが少し変わった話

私は、(察しのとおり男性ですが、)彼女らしい彼女がいたことがありません。この書き方は、詳細は省くが、まぁ0.5人としてカウントできるような人がいた ということなのだが、ここでわざわざ見栄を張って、彼女らしい彼女とか、0人ではなく0.5人とかと言っている時点で、「年齢=彼女いない歴」と言いたくない、自分の惨めさを、ひしひしと感じている。

少なくとも、自分から誰かに「付き合おう」と告白したことはない。そういう生き方をしている若者は決して少なくないのでは、と私は思っているのだが、少なくとも世界的にみた、日本人の傾向としては一つあり、たびたび社会問題としても取り上げられがちなところだと思う。

ここで、自分がなぜ誰かに告白したことがないのかを考える。まず大前提として、自分が女性に対して持つ好感と同程度のものを感じた一般的な(ここで言う一般は、彼女がいるのが普通の人たちを指している)人は、告白をする としたい。つまり、自分は根本的には彼女が欲しいと思っているし、異性を好きにもなるが、告白ができない という仮定だ。それを抑圧しているものが何かを考えることで、とらえ方を変えられるのではないかという話だ。

ということで、思いつくのは、以下の3つ。1つ目 失恋のリスクを取れない。2つ目 自分への自身の無さと、メタ認知による抑圧がある。3つ目共同体に対するメリットがないと思っている。 と、以上だ。

 1つ目は分かりやすい。フラれるのが怖いというものだ。それに、付き合ってから分かれたパターンも同じで、メンタルに対するダメージもそうだし、その後のコミュニティでの活動に悪影響を与えること、つまり二人の問題で決着しないリスクが非常に大きい。
 しかし、世の中には、職場恋愛や部内恋愛のようなものはすごくよくある話で、要するにそのリスクを承知で挑戦する人がいるのだ。これはつまり最初の仮説を受け入れるなら、「本当は、そんなことほとんど起こらない」ということなのだと思う。我ながらなんだが、コミュニティ内で敵を作りやすい性格ではないので、そのことについて裏で陰口を言われるようなことは、もう大人になってしまったわけだしまあ起こりずらいわけだ
 。とはいえ、感覚的に、もともとある程度仲の良かった女友達との関係が切れてしまうリスクはどうしても無視できない。また、ここにネガティブな感情がある以上、基本的には「別れることは悪」という価値判断になるわけで、余計にリスクがとりがたくなるのだ。

 2つ目は、大きく二つあって「こんな人に良く見られようとする努力ができていない自分が、誰かと付き合えるだなんて思い上がりだ」というものと、「あの子のことを良く思っているけど、それは無いって思われそうだな」というものだ。
 前者は過去に別記事でも書いているのだが、自分の生まれ持った外見の特徴、性格、そして圧倒的な”努力不足”を(恐らく一般人より強く)コンプレックスに感じているのだ。また、自分には、恋愛感情を、性欲とも友情とも違うものとして自覚できたことがなく、この感覚の答え合わせができていないために、自分を「その個人が好きなのではなく、体目当てなだけ」と評価していることも要因になる。
 後者は、例えば、サークルの後輩に手を出すだとか、入った会社で知り合った女の子にすぐ告白するとか、ブスを好きになるとか、彼氏持ち・人妻にアプローチするとか、 最後の二つは流石にないだろうという評価が簡単に下せるのだが、 それ以前のもの、今までの自分の規範に当てはめると「はしたない」行為であったり、「ありえない」行為だったりと、メタ認知が暴走しているのだ。そして、こういった感情は「こう思われるかもしれない」と感じがちだが、結局のところは、自分がそう思っているのだ。そう思うと、自分は女の子をとっかえひっかえするようないわゆる ”モテ男”を、自分を否定したくないがために否定しているのだ。ゆっくり考えれば答えは自明で”自分もモテたい!”のである。

 3つ目は共同体に対するメリットが無いことである。 自分は割と「自分の感情が弱く、大義名分を必要とする」性格なのだが、こと恋愛に関しては、その大義名分なんてあるわけがないと思っていた。 ここが今回の肝なのだが、 冷静に考えて、日本人口はおおよそ男女1対1で、若者の人口比は低いのだ。 そんな中で、自分が彼女がいないと嘆いている限り、一人の日本人女性は彼氏ができずに悩んでいるはずなのだ。

 もっと言えば、日本は今童貞・処女人口が多く、また少子化にも悩まされている。少子化に関しては、経済的な要因によるところなどもあるだろうが、少なからずカップルの減少との因果関係はあるだろう。日本が好きで、コミュニティへの貢献や、維持・発展にも喜びを感じるような性格である自分がいて、日本に対する非常に大きな貢献をできるチャンスがあるのだ。 これは申し分なく大義名分であり、「おあつらえ向き」だろう。

 さて、ここで、それぞれの要因による相乗効果を考える。 3はメリット、 1、2はリスクの部分であるが、 1と2のシナジーは非常に強い。自分には魅力がないと思い、好きになった相手のことも卑下し、自分の魅力のなさから、仮に告白してもOKされる確率が低く、またフラれたときに自分と相手の関係や周りの人間関係に悪影響が出ると思っている。ましてや自分を動かす大義名分もなければ、そりゃ「フラれるかもしれないけど、告白しよう!!!」なんてポジティブな感情が生まれるわけがない。

 じゃあどうすりゃええねん、って話なのだが、ここまでの話で半分くらいの回答は出ている。そして、決定的なソリューションを思いついた。それが「マッチングアプリを使う」ことだ。 そもそも自分は初対面のコミュニケーションが得意ではなく、新しいコミュニティに参加するのは、結構大きな労力を必要とする人で、また先ほどの、モテ男否定理論によって、「マッチングアプリなんてけしからん」みたいな感情があった。
 なにより、「一時の彼女ではなく、気が合う一生仲のいい人」を、期待しているのだ。なので、自分の性格が割とユニークで、平均的な女性との親和性が低いだろう自覚のもと、「初対面でなんて勝率低すぎでしょ」とも思っていたのだが、寧ろ最初の彼女と結婚して死ぬまで幸せなんてケースは、それこそ勝率は天文学的な低さなわけで、ある程度「彼女作る慣れ」をしないといけないのは当然なのだ。 数打った中で、自分のようなひねくれた考えの女性に出会えることだってあるだろうと思う。 こういう時に使う言葉ではないのだが「嫌われる勇気」である。

かつて自分が好きだった(と今になっては思う)人、今関係があってちょっと気になっている人、そういった具体例に対するアプローチに凝り固まっていたがため、見えていなかったし、恐らく周りの人たちは彼女を作ることを自分よりライトにとらえているのだろうと思っていたが、それが腹落ちしていなかったのも、これが原因であるのだ。

マッチングアプリを容認することで、「既存のコミュニティ・人間関係に影響を与えない」「相手も彼氏が欲しい人であるため、すでに関係のある人よりその分勝率が高い」「どれだけフラれても、関係が浅いが故に心理ダメージが少ない」「それ故、強気なリスクある行動も、総合的なリスクが薄い」と、良いことづくめなのだ。 というか、今まで戦っていた土俵から、皆が戦っている土俵にやっと移動してこれた感じである。

まとめだが、ただ「彼女が欲しい」と思い、「恐らく、自分から動けば、数打てば当たるものだ」と頭で理解したうえで、「こういう理由で自分から行くことがはばかられる」という現状の分析に、たった一つ、「大義名分」があるだけで、考えが広がったのだから、やはり推論というのは面白いものである。 

多分転職することになったけど、メンタルが不安定な話

多分転職することになった。 というかならないと困る。
なぜ「多分」なのかというと、 内定をもらっていないからだ。

ではなぜ内定ももらっていないのに転職することになったといっているのか、これは端的に言えば「会社に退職意思を伝えてしまったから」だ。そしてそれは、この会社が全員採用をしているという前提知識があったため、こんなことになっている。

実際、すでに面接を済ませていた人からは もし自分がそのきなら入れる前提で話を進めてくれていたので、あまり意識はしていなかったが、 契約上別にこの段階で不合格とすることは何の問題もないのだ。

かといって、この段階で 受からなかったから転職をしない というのも、なんとなく申し訳なさがあって、 恐らくなんにせよ退職はすることになるのだ。 まあ多分事情を説明したら、留めてくれるとは思うけど。

今日、管理部の人と面接をして、ここで「いつまでに内定出したらいつまでに退職できるか」みたいな、普通の話をしたのだけど、このことを聞かれて、はっとした。

冷静に考えて、まだ別に内定が出たわけでも何でもない状態だったのだ。それなのに自分は、社内には転職先が見つかったから退職すると伝え、有給消化期間の兼業手続きまで先に済ませていた。 明らかに「受かった前提」の話であり、 先方の面接者からしてみれば「なめられている」わけだ。

実際、この動きによって、双方にとって利点はある。それはスピードの話だ。 退職が決まらない場合、普通は退職しない可能性を加味して動くし、転職先が確定してから、引継ぎが始まるため、 つまり内定を出してから一定期間のラグが生じる。 それに対して実際にない手をもらう前段階で転職先が決まったつもりで動いたことによって、 早い段階から引継ぎに向けて動き始められたわけで、これによって、そのラグは最小限に抑えられるのだ。

私が、内定をもらっていない段階で、退職意向を社に出すという(企業は取れないような)リスクをとることで、 転職先の会社は、早い段階で自分という人材を獲得でき、逆に、今の会社は辞める前提の(つまり会社としては育てても何も価値のない)人を放出できる。

これはつまり”移行期間は誰にとっても短いほうが良い”という話である。 このためになる動きをしたということであれば、 まあある意味自分の行動には説明がつく。事実、最初に面談をした二人からは、まったくもって不採用になるような可能性を感じなかった(明言されたわけではないが)。それに転職に対する本気度も、伝わるとは思う。

ただし、問題は条件の方だ。

エンジニアグループの働き始めが大体13時くらいからということで、自分も基本的にはそれに準拠した動きになるだろうという話だったのだが、これは結構都合がよい。自分も夜型で、早い時間から動くのは得意ではないから。 ただし問題は’出社’だ。

管理部の人からは「ほぼ出社してもらう」ということで言われた。 まあ、エンジニアグループがほぼ出社しているという話は聞いていたが、それが自分にとって必要なことかと聞かれたら「実際そんなことはないのでは」と思うし、最初に面談してくれた人も、そこらへんは確定じゃない みたいなテンションだった。 まあ今の会社みたいに半年に1回しか出社しないというのも、高望みではあるのだけど、週5出社はぶっちゃけしたくない。それに、エンジニアグループが出社しているのは、毎日密なコミュニケーションをとることで素早いサイクルを回してガンガンリリースをするためである。 対して自分はシステムのリリースを毎日するような仕事ではなく、「考え、悩むこと」も仕事の一つであり、周りの人に分からないから聞く みたいなことが沢山出来るわけではない。なぜなら、作業のほとんどは分析可視化の部分であり、 その部分に関して周りの人間はあまり詳しくないからである。

実際、あのいい口は「ルールとして出社があるわけではない」という雰囲気なので、ここら辺は、自分で色々やってみて考えることにするが、 実際往復3時間はきつい。 8時間働くとして、1日の残りの時間は16時間なわけだが、その自由時間の18%をとられるわけだ。 特に8時間睡眠して、休憩1時間を会社で取ったら自由時間の40%強を移動に使うことになるわけで、 さすがにこれはしんどい。

まあバイクに乗れると思えば、いいのかもしれないけど、道も混むし、駐車場あんていしてあるかもわからんし、コロナだから電車も乗りたくないし。 引っ越しの影響でつい先日まで接種券の存在も知らなかったので、もちろんワクチン接種もしていない。 おおよそ考え付く出社したくない理由はコンプリートしている感がある。

あと給料 基本給が5万下がる。 まあそんなもんだろうって感じではあるが、これもちゃんと自分でバリュー出して認めさせていくしかないのだろうなと。 とはいえ、給料5万下がるだけだったら、十分家賃も払えるし、 特に問題はないと思っている。 今は金余りがちだし。 ただ出社するようになったらお金もっと使うようになってしまうのではという疑惑はある。 ここら辺も要検討。

といった感じ。 なんかちょっともやもやするところがあるけど、じゃあ自分の人生今の会社で過ごすのでいいの?って聞かれたら、それは間違いなくNoなのだ。 今の会社は、確かに任されている仕事そのものは面白いものかもしれないけど、出会いもないし、同年代も少ない。 基本的におしゃべりしたい(くせに人見知りなので世話ないのだが)私としては、新しい会社の若い人が沢山いる環境で、楽しくしていたいのだ。冷静に考えて、1週間の内5日は仕事しているわけで、つまり人生の5/7は仕事=マネタイズのための時間なのだけど、 最も効率的な生き方は、このマネタイズを楽しくすることであるはずだ。 そうすれば何かお金を理由に困ることなんて起きるはずがない。やりたいことをしたらお金がもらえるわけだから。

とりあえず、計画を立てよう。 この会社は間違いなくデータサイエンス部隊が必要となる。今は週1で働いているつよつよの人一人だけだが、今後は自分が舞台のトップとなって、他人を引っ張っていく人にならないといけないのだ。そのために、あと2年、2年間だけはリモートベースの働き方をして、 新しくデータサイエンスのメンバーを入れられるような状況にし、そこからは出社ベースで働くために引っ越す。 そしてガンガンサイクル回して、すべてのプロダクトの提供する価値とそれによる収益が、データサイエンスのおかげで底上げされていることを全メンバーが実感できる形にまで築き上げる。

そして、月手取り35万くらいにして、23区の東側、押上らへんの家賃16~7万くらいの一軒家に住む。 これが、あと2年以内の目標だ。 

そんなに、全部うまくはいかないだろう。そもそもその働き方が認められるかもわからない。給料をそんなに上げてもらえるほど、自分が価値を創出できるようになれるのかも自分次第だし、まだ何も見えていないからこの目標がどれだけ達成困難かもわからない。給料が35万まで上がらなくても、実際今の給料でも家賃17万円の家には住めるけど、最低限引っ越し資金がたまる程度のライフサイクルを構築できるのかが勝負だ。 

基本給を4半期で10万上げる目標。 つまり半期で2.5万。大分頭が悪いが、データサイエンティストには、トレードや投資、公営賭博などのツールもある。  十分狙えるラインだと思う。

人生で一番自由に無理できる時期なのだから、ここで適当に生きてしまったらどこで頑張るんだと。そしてきっと楽しみながら努力できる文化が転職先にはある。

ま、これで落ちたらギャグなんだけどね

仕事が辛い

最近、仕事が辛い。 辛いと言うよりかは、身が入らない感じだ。

私は自分のいる組織の中では上にも下にも人がいる立場で、 自分と同様の役割(私よりは管理者的意味合いが強くはある)を持つ先輩社員が何人かおり、直接の上司は他の事業部も取りまとめる「超つよい人」だ。 フルリモートで、給料もよく、実際のところかなり恵まれた仕事環境にいる自覚はある。それは大学やサークル、中高時代の友人と話していてもよく感じることである。

こう言う時、私は「自分は恵まれた環境にいるのだから、これで辛いだなんだと言っていたら軟弱にも程がある」と、自分を言い聞かせてしまう。友人や、コーチングをしてくれたコーチからは「真面目だね」と言われることがあったが、実際のところ自分を真面目な性格だと自分では思っていないけど、周りからそう評価されると言うのは、実はなかなかゾッとしない話だったりする。

ここでは一旦、自分は真面目であるとして話を進めるが、真面目であることと、実際に自分がそれをこなせるかは別問題なのである。 誰だって、怠けることも、分かっていて悪いことすることだってあると思う。 でも、それは多くの人の性格では「そのような行動を取る自分を許せるからその行動が取れる」ということらしい。 ただし自分は違う。 自分の中で、規範となるような在り方は確立していて、それは自分の実際の姿よりも高いところにある。そして、自分以外の人間もそのラインを当然のように求めてきていると錯覚しているのだ。

しかし、実際のところ、そうではなく、人は当然怠けるし、9時間拘束の8時間勤務で1時間以下の休憩しか絶対に取らない人もそうそういないらしい。 でも、ある人からこの話を聞いた時、「え、あなたそう言う働き方してたのに、自分からはそうは見えなかったな」と言うことに気づいたのだ。

つまり、みんな、そういうところを騙し騙し生きてきていて、絵に描いたような不正を絶対に許さないような性格の人間は(ある人を陥れたいような場合を除いて)いないのだと思う。でも、おそらくそれは正しいが、頭で理解できても心が納得しないのだ。

ここで本題に戻るが、仕事に身が入らないと言う状況がかなり前からまあまああって、自分としては、怠けてしまう自分と、それが許せない自分が共存しているのだ。 許せないからと言って辞められるわけではないと言うのが、あまり理解されないかもしれないが、できないものはできないのである。

そうしたとき、暫くは「自分が悪い」と思っていた。いつもいつまでにこれを片付ければOK〜みたいな感覚で引き伸ばしてギリギリで手をつけるようなやり方をしていたが、まあつまり負荷分散は十分できるはずだったのだ。まぁここまで見ればお前が悪いという意見にあまり異論はないだろう。

普通に体調的な不安定さがあるときとかも、仕事には全然手が付かない。 仕事じゃなくて自分がやりたいことだったらそんなに気になるもんでもないのだが、 夜中まで酒を飲んでいたりした翌日は大体朝のパフォーマンスは最悪だ。

ここまできて、わかったことがいくつかある。一つは、どうしてもやらないといけないことがある状態であれば、自分はすごく効率よく稼働できると言うこと、もう2つ目は、自分が怠けるのはまだいいとして、 このせいで部下が動けないという問題が発生すること。3つ目は自分が手を動かすことがこの会社では基本的に許されないと言うことだ。

この2点目は、かなり上司にもキツく言われて、改善しようとしているところではある。 何が問題かと言うと、うちはフルフレックス制をとっているため、1日のうち働く時間は朝五時から夜十時までのいつでもよくて、月間で平日日数*8時間働いていさえすれば契約上の問題はない会社なのだが、実際眠いと言う理由で14時から17時まで寝たりすると、その間部下のインターン生たちは自分の指示がないがために動けないのだ。 これが実は結構問題で、インターン人数に対して社員の数が少ないため、一人3人とかインターン生を持つわけだが、 これつまり放置できる日が全然ないんですよね。 これは問題だ。

3点目は、仕事が「つらい」と言う部分に絡んでくるのだが、私は今まで、できないことや期日までに終わらせられないようなことをバイタリティで生産していたところがあるのだ。まあつまり自分が単純に時間を使って手を動かせば、それだけ成果が生まれると言う話なのだが、これをすると、プロジェクトの利益率が非常に悪くなってしまうのだ。 

最終的に上から色々言われることはこの「利益」のところになってくる。基本的にうちの取り組みは顧客に毎月定額を払ってもらい、その中で作業をするような形になるのだが、この構造だと、基本的に自分が気が済むまで作業を進めると言うのは不可能なのだ。

かと言って、どうやらうちのボスから見た報告書のビジネスインパクトは別に高いわけでもない。 精算したその時間分、提供できている価値が高まっていると言うわけではないと言うのが、うちのボスの評価なんだと思う。

結局、自分の能力は求められているものより低く、自分が頑張りたいと思っていることはやっても誰にも評価されない。自分が出した成果物で、クライアントの利益額が増加してくれればわかりやすく分析をやるモチベーションにもなるが、コロナも合間って、自分がやったことが実際どれだけの意味があったのかなんて全くわからないと言うのが、結局自分が怠けてしまう理由なのだと思う。

そんな状態で、分析をしろって言われたって、成功体験の一つもなく、それによってその会社がどう言う行動を取ったかなんてのも、全然FBがない。 そんな状態で一体

おそらく、うちのボスから見たら、その報告書にはどれだけの価値があって、実際内部ではこう言う使われ方がするのか のようなところは見えているのだと思う。 それが見えてかつデータサイエンスで何ができるのかまでを理解しているから、 顧客に対して、様々な提案ができるし、それはもちろん無理なことではないから、部下も手が動かせる という構造にはなっていると思う。

ただし、部下である自分が、これに対してどのようにモチベーションを維持して取り組んでいけばいいのか という話になると実際無理があると思うのだ。 自分が真にやりたいことがデータサイエンスを活用したコンサルティングであり、それをうちのボスのもとで学ぶことそのものがモチベーションとなるのであれば、それは大いに結構なのだが、生憎自分はコンサルティングがしたいわけではないのだ。 私がやりたいのはどちらかというとエンジニアリングの方によっているから。 でも、そう言ったことをするにしても、最低限「価値のある分析のするデータサイエンティスト」にならなくてはいけないという意識はあって、 その点で今いる会社がそこだけに突き抜けているから、自分にとっている意味があったのだ。ただそれだけのためだったのだから、今の状況でモチベーションが保てないのも全く、変ではないのだ。

それに、自分が楽しいと思えるのは、ガリガリと自分の作業をする部分であって、メールの文面を考えるとか、リッチな報告書を作るとか、そう言ったことは確かに社会人として生きていく上で必要な能力ではあるだろうが、それは、自分が真にやりたいことではなくて、そういうのが得意な人に全て任せたいというのが本当のところなのだが、自分に今求められていることはそういう部分になってしまっているのだ。

結局、自分がやらなければいけない部分がそういったことだから、作業する気が出ず、作業をし始めないとやる気は出ない。そうなると必然的にパソコンと向き合っている時間は減るし、自分が指示をしないといけない人に指示を出すのも、質問に気付くのも遅れてしまう。そう言った悪循環が結局のところ利益率という形で自分の評価で返ってきているということなのだと思う。

つまり、この解決策は大きく2つあり一つは自分の立ち位置を変えること、もう一つはこれ自体がモチベーションになるような体験をすること。 後者についてはぶっちゃけ近いうちにそんな都合のいい事件が起きるとは思っていない。理由は自分がこれから出す成果物から行ったアクションによって、何か先方の中で変化が起こり、データにそれが反映されるまでには時間がかかると思うからだ。つまり前者の方が健全なわけだ。

自分がゴリゴリ作業を進めるのが好きだというのと、他の人に作業を振らないと立ち行かないというこの二つは、実際のところ、相反する部分である。 自分が人に作業を上手に触れるようになって、自分の手が開く状態を作らないと、やれることは自分がボトルネックになって、いつまで経っても増えないからだ。 とはいえ、自分が分析コンサルティングをする上で、だれかの上に立って進めるというのは、本質的に適性があるかないかの問題以前に時期尚早なのだと思う。 だって今まで誰かの下で分析をやったことなかったからね。

ここまで考えると、自分にこれだけの負荷を与えてできるようにさせるという采配そのものに無理があったのでは、という話にはなる。とはいえ、これが自分にとってのモチベーションにならないことは私もボスには伝えていなかったことなので、自分にも非はあるし、こうなってしまったことは、誰のせいでもなく仕方のないことだったのだと思う。

私は自分に対する投資の意味合いを含めて今のプロジェクトの状況があると、そうボスに言われ、 だから自分が辞めてしまっては、会社としてはなんの意味もない投資だったと思われてしまうと考える。特に今のクライアントとの取引がなくなってしまったら、いよいろ私が赤字切って仕事していただけということになってしまう。 それが許せなくて、雇ってもらった義理とか、先輩社員に色々面倒かけたこととか、色々込みで、辞められないと思っていた。

でも、誰かに投資するという行動そのものがε-greedy的な、探索的な行動であったと思えば、つまり、自分がこの建て付けの中で「ダメな奴」だったことそのものが、会社にとって一切意味のないことだとは言えない。

もちろん、その負債の返済は、おそらく別部署への配属であったり、持つ仕事を変えることであったり、そういうことで最も効率よく成し遂げられることなんだとは思うが、そこまでを雇われる側が気にする必要はないのだ。日本において雇われる側にはそれだけの権利がある。そう思っていないとやってられないし、「真面目な自分」をさしおいたら、もし自分が最も幸せになる方法が転職なのだとしたら、そこに迷いは必要ない。

そして私が転職するのは、そこでかかった負荷で会社を嫌いになったとか、そういう話ではなくて、単純に新たな場所でできそうだと思うことが、単純に自分にとって魅力的だから、そっちに身を移したいという、ただそれだけの話なのだ。

これから数ヶ月の間は、実際に自分ができることできないこと、向いていることむていないこと、転職する場合するまでの間にこの会社で何を習得しないといけないのかを、はっきりさせて、自分のために精一杯仕事をしたい。

最近はやりのある曲について 世間が思っているより共感できない話

最近、Adoという方のうたう「うっせぇわ」という曲が流行っている。

僕自身、この曲を知ったのは友達がカラオケで歌っていたからであって、「あぁボカロみたいな曲だな」と結構前に感じたことを覚えています。

そう。この曲実は投稿は去年の10月なんですよ。 最近というかここ1か月くらいで急に流行りだしてなんか不思議な気分ではあったんですけど、まあそんな話はそんなに重要ではなくて、今回話したいのは、なんで多くの人間に支持されているのかという部分の話です。

歌がうまいとか、曲(メロディー・リズム・コード・音像等)がいいだとか、恐らくそういうことは些細な事なんですよ。といっても、Adoさんの「エネルギー」には心打たれるものが皆あったのかもしれないけど。
で、色々な考察記事みたいなのが出回っているのを見かけると「歌詞への共感」がやはり支持の理由であったりするのだろうなと思うわけです。

この曲で恐らく言いたいことというのは、日本で教育を受けてきて、それなりに甘やかされつつ、いい子に育つことを暗に強要されてきて、社会人になってもやはりそれは同じで、当然のルールとされているくだらないものに自分が従わなくてはいけないということが、いやでいやで仕方がないということだと思う。

気持ちはまあまあわかる。私も、ちょっと前の記事で書いたように親が嫌いだし、それは本人たちにそういう感情を打ち明けられていないからこじらせてしまっていることを自覚している。だが「うっせぇわ」とはならないのだ。

なぜなら、自分の場合は、相手の言っていることが相手の立場からして妥当であることは分かるからだ。何より、相手の指摘は、正しいとかそういう話抜きに「相手が感じたこと」であることは違いないのだ。この事実だけは何であれ変わらないし、「うっせぇわ」と吐き捨てるのではなく、何らかの形で向き合うべきだと思う。

例えば、後輩社員が焼き鳥を串から外す作業を渋って上司に指摘された場面があったとしよう。こういう場面で後輩社員は「何でやらないといけないんですか」と言えばいいのだ。 

もし、そういうことが言えないのだとすればそれはあなたが自分の能力に自信がないということだと思う。つまり、そういう発言をしてしまうことで、その上司なりなんなり自分を評価する人にとって自分の印象が悪くなることを怖がっているということだ。だとすれば、この曲の歌詞に出てくるような「ちっちゃなころから優等生」というのが嘘になる。最低限、この曲を指示する人間は自分にある程度の自身があるはずだ。そのくせ、いや、だからこそかもしれないが、優等生であることを強要されてきたことで、自分の意見が面と向かって言えないようになってしまっているのかもしれない。

そもそも、こういう摩擦が起きていることに対して、その原因を探る姿勢があまりにも足りない。だって普通上司と自分で思っていることが違ったら、客観的にどちらが正しいのか、本当にどちらかが嫌な思いをしないといけないのか、なぜこんな認識の違いが生まれたのか、そういうことをまず考えようとはしないのだろうか。

私は優等生である自覚も、自分の能力に対する自身も、持ち合わせていないので、この曲にはあまり直感的に共感できないのかもしれない。

一人暮らしを始めたから言える話、贅沢な悩みなんだが自分の親が毒親だと思う

今まで自分は、かなり恵まれた環境で育ってきたという自覚があった。父親は年相応以上の給料(といってもサラリーマンの域を出ないレベルだが)をもらっていて、私立大学にも通わせてもらえたし、奨学金もない。母親も僕のやることに口出しはしないし、実家にいながら本当に自由にやらせてもらっていたと思う。

今振り返ると、家事という家事は一切していなかったし、家の金を勝手に使ったこともあった。部屋でタバコを吸うし、夜中までVCつないでゲームして騒いだりして、ニートではなかったにせよ、本当に迷惑をかけていたと思う。

勿論、今振り返って初めてそう思うわけではなくて、自分がクズであるということはわかっていたし、自分で自分の面倒を見なくてもいい環境があるせいで、それを矯正することもできなかった。でも、僕もそうだけど、僕の父親も家では本当にクズで、家事は僕以上にしないし、母や姉がテレビを見ている横でいびきをかいて寝ているところしか見たことがない。実害という話であれば、僕よりよっぽど「公害」していたと思う。何が言いたいかというと、僕がしっかりしたところで、僕の負担は増えても、家族の負担は別に増えないということだ。

母や姉は家事をしているという点で家には必要であると思うし、父親は財政的に必要な存在であるのは自明だ。そんな中、自分の家庭内での存在意義はほぼなかった。あったとしても、僕自身をあの家庭で食わせるコストが利益に釣り合うはずがないのだ。家で必要な作業をしているわけでも、お金を入れているわけでもないのだから、 本来あるべき姿は「おうちの人に一切歯向かってはいけないし、つつましく迷惑かけないように家を使う」というもののはずだ。だから本当に僕の姉はすごいと思う。あんな生き方で生きるモチベーションがどこにあるのか全くわからん。

その精神的な肩身の狭さと、あるべき姿があったとして自分のやりたいことがあって、つつましい感じにはならない という矛盾が、あの家で僕を生き辛くしていたと思う。しかも、両親や姉は謎に僕に気を使って色々言ってくれたりするものだから、本当に気持ち悪くて仕方がなかったのだ。 たまにご飯に連れて行ってもらうのが実はかなり憂鬱だったりするのだ。

よく考えれば、僕は家族のことが嫌いなのだ。だから昼食は自分の部屋で食べるし、夕飯も出てきたものを速攻で平らげて、自分の部屋に戻る。時間のほとんどを自分の部屋で過ごそうとしたから、ありえない量のごみがたまったりしてしまうのだ。

そしてこの間、僕はついに一人暮らしを始めた。 理由はほかにも色々あったのだが、その話はまた後日にするとして、その時ゴミ捨ての関連で急に父親に怒られたのだ。「そんな言い方はない。それはずるいよ、ずるは良くない。悪い友達がいたのかもしれないな。今まで甘やかしてきたけど、嘘と泥棒だけはだめ。そんなんじゃ生きていけないぞ、そんなこと言われたって何の信用もない。」と父は言ったのだが、(ここからが本題)まるで意味が分からない。

まず、その話の中で、自分がずるい点が一切思いつかなかった。あとこの件において、嘘も泥棒も何の関係もない。言い方が悪いというのは認めるが、あくまで言い方であったし、そもそもこのセリフを言われたとき、僕は母親とコミュニケーションをしていて、別にその時は悪い言い方をしてなかったと思うのだが、急に父親が入ってきて解説のために省略した話し方をしたら、めっちゃキレられた。まるで意味が分からん。

よく考えると只の論点のすり替えであって、何の問題解決になる会話にもなっていない。今その話はしてねえんだわ。大企業の部長が聞いて呆れる。そして、一番(二つある)問題なのが「そんなんじゃ生きていけない」「何の信用もない」の2つだ

まずそんなんじゃ生きていけないというこの発言は、僕のものの考え方に対するものであったわけだが、自分の実の息子に対してよくもまあそんな人格否定ができたものだと思う。ひろゆきの言葉を借りると「それってあなたの感想ですよね」そして友達を否定するのも超不快。少なくともその育て方をしたのはお前だ。僕は人に気持ちを類推されるのが本当にきらいで、だから人の気持ちを類推しない。予測を立てはするけど、それを前提によかろうと思って何かをしたりは絶対にしない。つまり「言ってくれないとわからない」のである。それで「今まで甘やかしてきたけど」って知らねえよって話なのだ。僕は単に許容されていることを知っていたが、それが「本当だったらどうかと思うけど、甘やかして許してしまっている」という状況であることを一切認知していなかった。それを認知しろというのは無理がある。親が、いやだと思ったら嫌だと僕に言ってくれればいいのに、それを放棄して、いざというタイミングで「お前今まで甘やかしてきたけどな」と言われても、重みも糞もあったもんじゃ無い。ついでに言うと、「嘘と泥棒だけはだめって言ってるじゃん」って言ってねえだろ認知症か?

僕のものの考え方は「悪いことがで切る状況を作ったやつは悪いことをされても文句は言えないし、悪いことする奴はそれが知られたときに何らかの形で裁かれる覚悟をもってするべき」というもので、父の言う「嘘と泥棒」は許容しているのだ。だって、結局自分が悪いことをしなかったところで、自分以外のすべての人間が悪いことをしないわけではない、つまりその被害にあって泣き寝入りになるだけなんて不公平だし、僕の両親ですら、常に完璧に正しいことをしているわけではない。どうやらこの現金な考え方が父は気に入らなかったのか、理解できなかったのか。

「何の信用もない」の方は、本当に意味が分からない。僕は母に対して「今からOOをするけど、その後XXを頼んでいい?」という話をしていた。ここで頼みが聞けないという話なら、それはそれで考えないといけないから先に確認をとっておこうという意味でコミュニケーションをとっていたのだが、そこに父が割り込んできて説明したら「そういうことはやってから言え、今そんなこと言われても何の信用もない」って言われたのだが、そもそもお前に信用されることがこの件において何の意味もないし、何か行動の前にコンセンサスを取っておくことそのものを否定されたけどそれも意味わからないし、そもそもお前に言っていない。話の流れが無茶苦茶。いや本当に大企業の部長が聞いて呆れる。

 

まぁどうせ何言ったかなんて覚えてないんだろうけどな。 こんな奴が重職ついてお金もらってるんだもんな。日本死ねとはよくいったものだと思う

健康不安結構抱えてそうだし、定年で退職金もらったらとっとと死んでもらいたいものです。

最近メンタルがしんどい

前回の記事内容からしてもお察しのとおりかもしれないが、最近ちょっとメンタルがしんどい。 多分人に会っていないのが原因なんだが、やはりメンタルがしんどくなると、自己分析が捗るんですよね。色々考えたことがあるからいったんまとめていきたい。

最近、他人(特に同世代)と比べて自分は「行動規範が高すぎる」のではないかと感じている。実は僕の友達の精神をマジなほうで病んでいる友人が最近季節性鬱をこじらせて、その人と話をしていた後に気付いたことなのだが、どうやら人間、行動規範が高すぎると、自己肯定感が下がるらしい。

ちょっといい言葉が思いつかなかったから行動規範という言葉を使っているが、どういうことかというと、「ちゃんとしている人はこういう場面で、こういう行動をするだろう」とか、「こういうことは、こうあるべき」というあるべき姿が、普通の人の水準より高い気がするのだ。ようは育ちが良いのだと思う。そのくせ、反骨精神があるというか、真面目にこなしていけるほど強くないというか、ようはその「あるべき姿」に自分がたどり着けないのである。これは、それをする能力があるかどうかというより「努力できるか」にかかっており、あるべき姿に成れないことは、すべき努力を怠っているように感じてしまう。そのため、そんな頑張っていない自分を評価できなく、メンタルが病むのだ。人によって、努力できる程度というのは得手不得手の範疇であって、先天的にそんなことができない人だっているのに、自分以外の多くの人間がその規範に従っていると錯覚し、ちゃんとできない自分を責めてしまっている。

僕の好きな作品に化物語というものがある。そこに登場する羽川という人物は、自身の中にある規範のレベルが高すぎるが、それを自分を殺してこなしていけるだけのバイタリティがあるがゆえに化け物扱いされて、実際に化け物になってしまったわけだが、多分これは普通の人はそんなことは不可能である ということの裏返しであるのだ。

多分そうなんだとは思う。実際自分の周りに自分の思う完璧にあるべき姿である人なんていない。でも、自分の周りがダメな人間なだけであって、それはただの類友なだけで、多くの人間が、そうではなく自分の思う「最低限あるべき姿」を守っていない保証はないのだ。 少なくともそう思い込んでしまっていて、教え込まれてきてしまったから、深層心理でそれを否定することはできるはずがないのだ。自分は自分の中にある規範をまったくもって守れていないからこそ、他人の素行には優しいのかもしれない。この性格が共通しているがため、さっき話に出てきた精神を病んでいる友人と自分が仲良くできているのかもと思う。

彼も僕も、譲れない部分はある。おおよそそれは「誠実さ」といっていい範囲なのだが、それでも、それだからこそ、それ以外の部分が寛大で、多くの人から優しいと評価されているきらいはあるし、人のために何かしてあげたい、自分本位になることで、他人を傷つけてしまう可能性を排除しないと気が済まないといった性格になってしまっている。結局背負いきれずこうやって精神を病むのだ。 彼と僕の違いは物理的な体の強さと、家がより厳しかったかどうかだけで、生まれながらに持つ気質的な部分からとても似ているように思える。生きずらいことには変わりないが、僕はたまたまそれを発散できるだけの多くの依存先を持ち合わせて、彼にはそれが足りなかっただけに過ぎない。

この話の発端となっている部分はほかにもあって、最近ちょっと仕事辛いなって感じていて、その話をある友人に色々話をしたら「まじめに仕事してるね」って言われたんですよ。この時に、そういえば今までいろいろなところで、真面目だと評価されてきたことに気付いたんです。別のコミュニティの人から同じ評価を受けているということは、つまり自分は真面目なんだなと、そう思ったわけです。ここで問題なのは自身への評価とのギャップで、これが自分のものの考え方が他人とずれていることの裏付けになってしまったという点なんですよね。これはそれ自体が生きずらさの原因でもあるし、その内容もたちが悪かった。

少年院に来るような人も「まじめな人ほど真面目に不良をしてしまう」という話を聞いたことがあるが、真面目であることは必ずしもいいことではなくて、自分の身を滅ぼしてしまうだけの可能性がいろんな方向にあるということなんだと思う。

だから、僕は真面目な自分が嫌いだ。自分がもっと真面目でなければ、こんなにいろんなことを考えこんだり、悩んだりする必要はなかったと思うから。どんなことにも真面目に取り組もうとしてしまうこの性格は恐らく死ぬまで矯正できるものではない。恐らく多くの人は「大人になる」ことで真面目さをそぎ落としてこれたのだと思うのだが、僕は大人になることをかなり前に諦めているので、こういうところが、「素直」とか「子供っぽい」とか言われる要因の一つのようにも感じる。

 

 

珍しく恋愛の話

久々に軽く恋に悩んでいるので、自分の考えをまとめてみる。

まず何があったのかという話だが、この前、好きだった人(以後彼女)に久々に会って「彼氏と別れたんだ。今ならフリーだよ」と言われて、これ本当だったらアタックすべきなんだよなぁと思った というのがことの発端。

「お前とは距離が近すぎるし、共通のコミュニティがある以上、その中でギスギスした感じになりえないからちょっと...」とか「童貞とは付き合わないって決めてるんだよね」とか、絶妙にガードしてくるのだが、とはいえ本当ならアタックすべきなのだ。そんなのは僕自身に対する彼女の評価ではないわけで、生理的に無理とか、そういう次元でないうえに、ちょっとした借りもあるので、彼女の性格からしても、僕が猛烈にアタックすれば折れるだろうとは思う。そうは思うのだが、そうしようと思えない性格なのだからしかたがない。

今一、他人の恋愛を見ていて、共感できないと思う部分が多くて、例えば「ここのデートスポットマジで最高だから、気になっている女の子を連れてきたらイチコロだよ」とか「OOの時に、OOで好きになった」みたいな、何かしらのエピソードが原因で人を好きになるとかはまったくわからない。 いやまぁデートスポットに連れていく時点で、その人の本気度というのが知れるわけで、断わりづらくなるだろうし、 これだけ本気に思ってくれているならOKしようとか、 そういうのはわかるが、少女漫画のように「えっ好き...」みたいになるのは僕にはわからない。それに加えて、熱烈に一人の人を好きになる、すなわちそれ以外とその人で明らかな差ができるような物を好きになるなり方(ちょっと日本語がおかしいけど)を今までしたことが無いのだ。これは最近気づいたことだが、何かを嫌いになるということができないと、何かを好きになることができないという考えがあるらしく、もしそうなのだとしたら自分は本当の愛というのは知らないことになるのだろう。

恐らく、僕が思っているより、誰かと付き合うことも、突き合うことも、彼女を含め世間一般の人にとっては軽いことなのだ。そんなに重要なことではなく、ただ単に誰かを好きだと思ったら自分のためだけに告白をするもんなんだと思う。若いうちに恋愛をしないでこじらせるとこうなるんだぞと、中学生くらいのころの僕に言い聞かせたところで恐らく何の意味もないだろうけど。

さっき「好きだった人」といったが、実はかつて好きであるということは伝えているのが。 でもそれはその人のことが自分にとって大事であるという事実でしかなく、その人が幸せになってほしいというだけであって、そこに自分の存在は必ずしも必要ではないのだ。そう、好きだとは言ったが付き合ってくれとは言っていないのである。確かに彼女が自分のそばにいつもいてくれたら自分は幸せかもしれないが、それはイコールで相手の幸せということにはならない。お互いWinWinになれるのであればそれほどいい関係はないだろうが、僕は相手を幸せにさせられる自信がないのだ。

そして、自分は「何かを好きだということに抵抗を感じてしまう」というのも、一つあるような気がする。例えば、僕は音楽が好きでよくいろんな曲を聞くのだが、「この曲いいよね」とか「この曲好きなんだ」みたいな話は全然できない。音楽に限っては、最近自分の耳に自信がついてきて、言えるようになってきたのだが、やはりこれも自分をどれだけ信じられているのかという話になってくる。人に関しても同じだと思っていて、相手に対するこの好きという感情が、本当に普通の人だったら告白するに至るレベルのものであるという自信がないのだ。 これは熱烈に物を好きになったことが無いというところに繋がってくる。 自分の中での「好き」の最上級があまりに低い(と思う)ため、このことに関してあまり自信を持てないのだ。

だから、性的マイノリティの話とかを聞いていると、「うーん 別に他人に恋愛感情を抱いていないわけではないし、性欲も感じるし、 好きなのは女性だし、なんだかなぁ」って思っていたんですけど、ついこの間、「ポリアモリー」というものを知って「これだ!!!」ってなりました。ポリアモリーは、調べれば色々記事が出てくるのでそれを見てもらえばわかると思いますが、端的に言うと「複数人を同時に好きになれる人」と思ってください。

こういったくくりがあるという事実を知っただけで、実はかなり救われて、色々調べて(バイセクシャルが多いという部分以外に関しては)かなり腑に落ちる内容だったんですよね。こうなってくるといよいよ、 自分と指向の合わない人と付き合うべきじゃないよなぁと 当初のゴールからどんどん離れていってしまうんですよね。。。

最後に、彼女を好きな自分が、彼女にアタックするべきなのかという命題に対する答えを見つけたい。考えられるケースは「告白しない」「告白してフられる」「告白してOKされる」の3通りだ。

まず告白してOKされるケースだが、これはひとまず自分にとっては短い時期で見たら一番幸せなケースだろう。しかし、自分が同時に違う人を好きになる可能性を秘めており、最善のケースとしては、その指向を彼女に理解してもらえるというところまでを含める必要がある。勿論理解してもらえない可能性もあるし、そもそも自分が今後も彼女以外を好きにならなかったとして彼女を幸せにできる自信はまったくない。僕が能動的にそうすることができないという話ではなく、彼女の幸せにとって自分が障害にならない自信がないということだ。というかこんなこと考えている間に新しい彼氏と付き合っていたり、前の男と寄りを戻していたりする可能性もあるので、本来悠長なことは言ってられない

次はフられるケース これは単純に僕が傷つくし、冒頭にも軽く言った共通のコミュニティで僕が息しずらくなる。というかすでに若干ハブられている気があるので、なんだかなって感じ。呼ばれるたびに行っているが、いかんせん人間ではなくマスコットとして扱われている感が否めない。

最後に告白しないケースだが、これはチャンスを逃す可能性があるという点と、その場合自分以外の人間と彼女が付き合うことで、彼女が不幸せになる可能性があるというマイナスがある。

こうなってくると、どのリスクをとっていくかというだけの話になるのか。やっぱアタックすべきなんだなあ...