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信じるとは何か

信じるという言葉がある。 最近SNSで、芦田愛菜ちゃんがなんかのイベントでしたコメントが話題になっているらしい。

本人の言いたかったことを本当に正しく解釈で来ているのかは定かではないが、信じるというのは、相手ではなく自分自身の勝手であり、裏切られたというのも見えない部分が見えただけであって、勝手に幻滅しているだけ。 というのが、その意見らしい。

なんというか、年齢相応の意見だとは思わないが、 年齢というバイアスを除けば、別にいいことを言っているような気もしない。至極当然なことを言っているな。別に急に話題になる程のことではないな というのが個人的な感想だ。

ここでちょっと「信じる」という言葉の意味をネットで調べてみると、「どうやらそのことを本当だと思う。疑わずに、そうだと思い込む。信仰する」 と出てきた。(そもそも言葉としての基本形は「信ずる」らしい。個人的にはこっちのほうが芦田愛菜のコメントよりよっぽど目から鱗だった)今回の場合は宗教的な意味での信じるは無視して「信じる」とはどういうことか、考えてみる。

自分にとっての信じるという言葉を定義すると、「確かではないものを根拠に、相手の発言等を暫定的に本当だと思うこと」だと思う。確かではない根拠というのは、今までの実績であったり、何かしらの信頼関係であったりするわけだが、ここで重要なのは、「疑わない」という部分の性質だ。確かに、相手の発言を嘘だと思っているわけではないのだが、嘘であることを一切可能性から排除しているわけでもないのだ。

相手が意図して隠してようがたまたま自分が見落としているだけだろうが、 意図的に陥れようとされていようがいまいが、そんなのは関係なく、「相手を信じる自分を信じて、その判断をしたことに自分で責任を取る覚悟ができる」というのが、信じるということだと思うのだ。

つまり、裏切られた時というのは自分の見立てが甘かった時であるわけだ。ここに関しては芦田愛菜ちゃんの意見と相違はない。ただそもそも、例えば自分が好きな相手が、相手も自分を好きだと思っていたら、本当は違かったとき、もちろんメンタルは沈むが、当然その理由は「騙しやがって」ではなく「なんで舞い上がっちゃったんだろう」みたいな方向性だと思うのだ。少なくとも自分はそう思う。だから、 この芦田愛菜ちゃんの意見になんの聡明さも目新しさも感じないのだ。それはそうだろって感じ。

ちょっとビジネスよりの話をすると、私は新卒会社員なのだが、部長には「君たちには結構な責任になる部分を任せているが、それは君たちの尻拭いならできると俺が思えるだけの能力があることを知っているからだ。」と言われている。正直しびれた。これがいわゆる大人の世界の信用なんだなと思った。

高度に成熟した社会で、自殺するべき人間はいないのか

私は、自殺はよくないことだと思うが、安楽死は認められるべきと考えている。 一見、矛盾した考えのように思えるかもしれないが、同じように考えている人も少なくないと思う。 ここではあえて、自殺と安楽死の違いに関しては言及しない。

安楽死を認めることは難しいという話を聞く。その理由は、2つあり、一つは、人を死にたいからと言って死なせるのが医療ではないという点。もう一つが、死ぬ選択が許されている人間が生きる選択をとることが、人によっては難しいのではないかという懸念だ。今回は、特に前者について、深く考えてみたい。

死にたいといっている患者を死なせることが、医療ではない。これはすごく立派なことだと思う。そう考える患者の精神をケアして、生きる希望を与えることが、医師の仕事なんだというが、これはつまり、死んだほうが良い人間などそもそも存在しないという意味であり、 本人の意思を含め、損得勘定的には死んだほうが良いかもしれないけど、ルールがそれを認めないというケースがそもそも存在しないという言説になる。

確かに、運動能力をほぼ失った人間は、あとは知的活動以外に、人間らしい活動をできる部分がないが、 頭を動かすことで、世界にコミットできる可能性が一応残されている。別に新しい数学の公式を作れとかそういう話をしているわけではなくて、芸術方面でもいいとは思う。 ブレインマシンインターフェイスなんてものが開発され始めているのだから、そういった人間の、生きる価値というのは、割と簡単に与えられるような気もする。寝たきりになっても、生きる意味がある可能性は否定できない。

では、認知症等の場合はどうだろうか。 体を動かして社会に利益をもたらすことも、知的活動によって、社会に利益をもたらすこともできない。 果たしてこういった人間を延命させることに、社会にとって価値があるのだろうか。勿論、本人やその家族がお金を持っていて、十分入院させることが可能なら延命させたっていいかもしれない。だが、その延命によって救われた魂があっただろうか。 確かに、今後全くそんなことがないとは言い切れないが、今のところ、重度の認知症から復活して普通の生活に戻ったなんて話はあまり知らない。 少なくとも、自分がその立場になったとき、復活できる可能性なんて考えはしない。

 つまり、 公共の福祉の最大化を考えたときに、 死なないほうが良いことを否定できない人間が、一定数いるのだ。少なくとも、今のご時世で安楽死を望む人間は、自分自身をそう見ている。そういった人を死なせることが、ルールとして認められていないという理由だけで、延命することを強要させられるのだ。

よくよく考えて、本人や、家族にお金がない場合、 患者を生き延びさせることは事実上不可能だ。 ホームレスが仮に救急搬送されたとして、身元を預かるような人間がいなければ、病院が一方的に負担を背負う形になってしまう。いくら国による支援があるといえど、これでは立ち行かないし、間違いなく、高齢社会でこの状況は破綻する。そういう場面で、”家族に負担をかけるだけだし、生きているだけ体が痛くて辛いし、ここから回復する見込みもないし、死んだほうがまし”という思いを、カウンセリングなどの方法で解消してあげることができるのだろうか?場合によっては可能かもしれないが、すべてに対してそれが可能とは、到底思えない。いくら崇高な意識があっても、実際問題不可能なのだ。

延命をしなければ1年で死ぬ。 1年の間に病を治せるような開発がされる確率は極めて低いし、恐らく実証実験などの様々な過程を踏んでいる時間すらない。そんな人間をあと1年間、生き延びさせることに、生き延びさせてもらうことに、どんな意味があるのだろうか。おそらく、限りなく何の意味もない。

つまり、自ら命を絶つことを認めることで、得られる利益が国にはあるし、認めないことで、国の負担は増えるのだ。 財政危機だなんだと、喚くのであれば、生き延びることで経済効果を生み出さない因子には死ぬことを認めても、そう悪くはないのではないだろうかと、私は思う。

残りの人生、どう生きようか。

最近、平日の昼間は毎日、自宅で在宅ワークをしている。リモート勤務といわれるやつだ。

自分で選んだ業種だし仕事だし、新卒にしては給料も高いうえに実家だからお金には全然困らない。 何不自由ない人生なように思えるかもしれないし、羨まがられるかもしれない。だが、本当にこれでいいのかという思いがぬぐえないのだ。

よく聞く話に、30まではブレブレでよくって、 30くらいからやっと何のために生きるのかを決められるものだ見たいなものはある。私は22歳だから、別に待ってしまえばいいとも思うが、別にこれって待っていれば勝手にあちらから歩いてくるものとも思えないし、早い段階で決められて、もしその実を突っ走っていければとても楽しいと思うのだ。それに体力のある今のうちが、一番クリエイティブになれる時期なんだと教えてくれた人生の先輩もいる。

劇的な人生なんて、望んで得られるものでも、望むべきものでもないのかもしれないけど、僕は劇的な人生を歩みたいと思う。 少なくとも今までの人生は、平均的な同世代よりはいろんなことを見聞きして生きてこれたとも思う。これからの人生もそうありたいと願う。 でも、これからのことが、あまりにわからなさすぎるのだ。まったくもってビジョンが見えない。

今までの人生は、何もしなくても3年毎くらいに、環境が勝手に変わって、その3年間の中にも山があった。親や先生が望み、勝手に与えられる「普通」に沿って歩んでいくだけでも、つまり大きな意思決定を自分でしなくても、ある程度は楽しい生活ができたのだ。これだけでも幸運だとは思うのだが、これからはその幸運を自分でつかみに行くことを強いられている。だがその経験も方法も丸で手の中にないこの不安ったらない。

まぁまぁ生きる上でのモチベーションがあると思っていた自分ですらこうなのだ。同じような漠然とした不安感というか、問題意識というか、そういうのを抱える同世代の人間は本当は多いはずなのに、全然そんな問題はツイッターで流行らない。思っている人がいても、共感する人が多くないから、自分のところまで回ってこないのだろう。

どちらかというとこの疎外感的な部分のほうが大きいような気もする。え、みんなこんなふわふわした状態でよく仕事に精が出るね!嫌々言いながら職場に通勤できるね!って。そう思う。自分にはできないことだし、お前らどうやってこれから残りの75%くらいの人生を歩んでいくつもりなのかと。そういう後先のことを考えないで、あるいは今は考えないでもいいという確信をもつことが、なぜできるのだろうか。僕は自分の未来が不安で仕方ない。

でも、こんなことを思うのは、今の仕事に本気ではないからなのかもしれない。(つまり、僕以外の大勢は今ある仕事をとりあえず精いっぱいやることにエネルギーを注いでいて、未来どころではない状態であるという仮説)でもこれは仕方がないことだとも思う。僕の手元に与えられる仕事の量は、会社や部署が抱えている社内外の案件に依存しているから、それが空になったら、自分のやることなんてあるはずがない。 こんな状況でも、ただでさえ高かった初任給が、4か月で3万円も上がったし、この程度で世界は僕を評価してしまうのだ。

しばらくは、このもやもやのまま、生きていくことになりそう。

自分がうつ病でないことを否定することはできるのか

よく、うつ病や自殺に関するエントリーがSNSで流行っているところを見る。どれも痛ましい(日本語合ってる?)内容で、やはり、だれの身にも起こりうることなんだなぁと感じる。

自分の身の回りにも、うつ病やそれに近い症状でお医者さんから薬をもらっている友人が2人ほどいる。こんなに友人の少ない私ですらこうなのだ。 いや、類友ってだけで、バイアスがかかっている可能性は否めないが、つらい思いをしている日本人はたくさんいるのだと思う。

ところで、一般に精神病といわれるものが病気として扱われる基準を御存じだろうか。これは厳密には違うこともあるのだろうが、多くの精神病は日常生活に支障をきたすレベルのものを指す。ロリコン(医学的にはペドフィリアっていうんでしたっけ?)や露出狂のようなものも、そういった基準で病気かそうでないかを判別するらしい。要は本人が困ったら、定量的にみて、程度がどうであれ、お医者さんに罹ってもいいよという意味らしい。

理系脳全振りの私的には、この基準の言わんとしていることに納得はするものの、じゃあみんな定量的にみてどれくらいのストレスで音を上げているのだろうか、と気になってしまう。もちろん、同程度の現象に対してどれくらいのストレスを感じるのかすら、人によって違うのだから、実際に証明できる問題ではないこともわかっている。どんなことから、どれくらいストレスを受けやすいか、どの程度のストレスなら受けても大丈夫なのか。許容量の何割くらいでどんな症状が出るのか。 そんなのはすべて個人差の世界のはずだ。

それでも、世の中には精神外科医やカウンセラーと言われる人がいて、そういった問題を抱えている人のケアをしてくれている。こういった人達はその専門であり、ある程度「お医者さんに助けられた」という話を聞くということは、その専門性=学問としての体系・知識がいろんな状況に柔軟に対応できる便利なものであるということであり、きっとこういう人たちに自分のことを見てもらえば、大丈夫とか大したことないとか、深刻な状態だとか、そういう評価はもらえるはずで、それはある程度信用できるはずなのだ。しかし、自分が問題に思っていないなら、こういった人たちに見てもらおうとは思わない。ただ、うつ病になった経緯みたいなのを見ると、大体後から考えてみれば警告のサインが出ていたというケースが非常に多い(ように見える)。自分もそれを無視してしまっているだけで、本当はやばい状態なんじゃないかと思ってしまうことがある。

事実、起きないといけないと思っていても起きれないことはあるし、生活の中で息苦しさみたいなものは常に感じている。満たされないな生きずらいなって思いながら生活しているし、そこそこストレスを感じてはいると思うし、それを発散できているとも思わない。これが自分じゃなかったら精神崩壊していてもおかしくないなとは思う。

ただ、これはかなり神経質な考え方で、自分が仕事で集中できない理由や起きれない理由を病気のせいにしてしまいかねないとも思う。お医者さんに罹って初めて病気のせいにできる。シュレーディンガーうつ病だ。これは非常に難しい、しかも一般的な問題だと思う。 誰もが、自分自身で自分のことを専門家でも何でもないのに、正確に評価して、異常になったら、専門家に見てもらうべきという、意味の分からない状況になる。

自分の性格を、病気のせいにできたら、どれだけ楽だっただろうか。

分析って難しいな?

どうも。最近データサイエンティストとして働いている人です。

最近、働いていてちょっともやもやすることがあって、これについて軽いコーチングを受けて気づきがいくつかあったので、それをまとめる。

私は、データサイエンティストとして最近、分析及び資料化・発表という仕事をしている。この仕事が思うようにこなせていないというのが、もやもやしていることだ。

ここまで聞くと、分析が難しいなら勉強するしかないじゃないか、と思うかもしれないが、実は行っている分析はかなり簡単なもので、問題なのはそのあとの資料化・発表の部分にあるのだ。

自分的には、あるべき手順を踏めていると思っている。どういうことかというと、簡単な分析とテクニカルな分析で、行った分析を依頼主に理解してもらうのはどちらが簡単かというと、もちろん前者なはずであり、難しい分析でも相手に理解してもらわないと価値がないことは自明なので、簡単な分析で修業を積むことに何ら不思議な点はないということだ。

そればかりではない。データサイエンスをやるうえで、このテーマは何よりも大事な部分であるはずなのだ。データは、0と1、電気信号の集合でしかない。これを分析することをデータサイエンティストに依頼する企業の取締役は、ここから知識を得たいがために依頼するし、その知識から次の行動を決められるならそれは人間の肌感より精度が高く利益の出る行動になるはずだから、予算をとるのだ。売り上げを伸ばしたいとか、コストを削減したいとか、あるいはどこから手を付けたら利益が伸びるのかわからないという問題意識から、初めて分析が依頼される。

で、ここが非常に難しいのだ。明確なゴールがある場合は別なのだが、「こんなことが知りたい」という、クライアントサイドのモチベーションがない分析というのも、無いわけではないし、そもそもそれがあったところで、どんな分析をすればその答えが出るのかを考えるのはデータサイエンティストの仕事だ。特にクライアントがゴールを指定しない場合、ゴール設定も含めて分析者が考える必要がある。これが難しさの原因だ。

基本的に、分析の結果「つまりこんなアクションをするといいですよ」という結論が出るのが、理想形である。 例えば、「広告をこれくらいの頻度で出すとこれくらい購買頻度が上がるから、 広告を増やしましょう」とか、クライアントがコントロールできる何かが、利益に影響を与える関係である場合が、一番わかりやすい。 しかし現実はそんなには甘くなく、「こんな性質の顧客が利益の大部分を占めているから、そういう顧客を増やすのがいい目標ではないか」という程度のものになる。 だが、ここで問題になるのは、じゃあその目標をどうやってクリアするか、あるいはできるのかは私には少なくとも直感できないということだ。そして、直感できなくてしかるべきなのだとも思う。

これは、クライアントがどういう施策を今まで打ってきたのか、どういう場面では普通どういう経営判断をするのか、直接的ではなく間接的にコントロールすることのできる変数はどこまでなのか、どういうことをするのにどれだけコストがかかるものなのか、ということを理解していないと判断ができない。間接的に利益をコントロールできるというなら、最初から分析は必要ない。

つまり、自分の依頼されている分析から得られた結論が、経営判断に使えるのか使えないのかを、自分で資料を見返したときに理解できないのだ。 こんなでいいのかな?と思っても、部長にはOKをもらったり、その逆もあったりする。そこを判断するためのクライアントのやっているビジネスの知識も、データサイエンティストとしての知識も。恐らく足りていない。判断するための材料が足りないのだ。未知数に対して式の数が足りていない方程式のようになっている。 毎回、悩みに悩みぬいて、資料を作って、何回かのリテイクを受けているが、ぶっちゃけ”確かにこれはクライアントにとって重要で、アクションに繋がる知識だ!”と実感をできていない。 ”あ~、確かにそうかも”くらいの理解度だ。 こんな状態でまともに独り立ちできるとは思えない。

もしかしたら、これは経験とかセンスとか、そういう次元の話で、多くの人間が乗り越えてきた壁なのかもしれない。だがそれでは根本的解決にはならない。属人的すぎる。情報系の世界で一番忌み嫌うべき状態だ。個人的には、これを形式的な知識に落とし込みたいと考える。

もちろんすべてではない。どんな業種のどんな問題に対する分析にも、対応できるようなフレームワーク的なものがあるとは到底思えない。だが、根本的な部分をある程度ならその枠組みに沿って考えることができるのなら、色々な分析において、とくに初心者にとっては、どんな論理の順序で結論を出せば、価値のある分析になるのかを自力で導き出せるようになるはずなのだ。”こういう時、こうするのが普通”みたいな部分を、それがなぜ普通なのかを導き出せれば、 そういった細かい定理みたいなものが頭の中になくてもある程度のものがアウトプットできるようになるはずだし、定理の存在する意味も理解できるだろうから、そこから、自分の中に”こういう時はこうする”というルールを作れるようになると思う。

ここの回転が速くなれば、今でこそ外部のクライアントから納期を設定されて行っている分析だが、早ければ早いほど良いような自社プロダクトの分析をする場合は、段違いのバリューとなるはずだ。

じゃあどうやってこれをできるようにするのか。これはもう「過去に行った、”正解”であったはずの論理の流れを追う」ということくらいしかないだろう。 ひとまずはここから手を付けることとします。

安楽死に賛成か否か

最近、依頼を受け安楽死をさせたある医師が殺人の容疑で逮捕された事件があったのをご存知だろうか。

多くの人間がどう思っているのかは知らないが、恐らくは、死なせてくれという、本人の願いがあったことが認められても、法律で、意図的に患者を死なせるように薬を投与したりするのが、禁じられているという理由だけで、医師が殺人の罪を背負うのはなんか違くない?ということで、盛り上がっているのだと思う。

別に、最近こういう事件が無かっただけで、この問題は日本に前からあることで、安楽死をさせた医師が捕まった事件が過去にいないわけでもない。

参考までに、日本ほど延命治療に積極的な国は少ない。アメリカでは延命治療をするなんて残酷という意見も少なくないらしく、ベッドに寝たきりで、普通の生活に復帰できる見込みもないのに、チューブを繋げて生かされ続けていることを気持ち悪いと思うらしい。それも民事訴訟が起きるレベルに。私もこの意見には賛成だ。

いつかの記事でも書いた気がするが、私は延命には反対だし、安楽死には賛成だ。自分の立場で考えたとき、寝たきりの生活しか残されていないのに生き続けたいなんて欠片も思わない。母方の祖母が今そんな状態で、顔を見せに行ったとき、強くそう感じた。でも、祖母のことをどうするかを、仮に法的に安楽死が認められていても、決めることは僕にはできない。僕に権利がないのだ。多分私の母にも決められないだろう。認知症などまともな受け答えができない患者でも遺族には大きな恩のある人な訳で、死なせる判断を勝手にするのは、本当にいいことなのか?本人は本当は生きたいと思っているんじゃないか?と思うだろう。

つまり何が言いたいかというと、安楽死ができる法律になっても、そう簡単に選ばれる選択肢ではないということだ。家族が病院に入れたりしている時点で、その人は誰かの大切な人なわけで、家族から「何で安楽死しないの?」と言い寄られることはそうそうないだろう。そこまで行かなくても、促したりだってしないはずだ。本人の確固たる意思があって初めて、されるはずだ。なんなら周りの人間が反対することもあるだろうと思う。

それでも僕は、まともな受け答えができなくなった祖母を見て、自分が、本当にこうはなりたくないと感じた。でも今の法律ではおそらくこうするのが最適なんだ。こうしなければ、家族は自分で介護しないといけなくなるし、眠っている間にナイフで刺したりもできないだろう。安楽死という選択肢があったら、どれだけ楽だろうか。

僕は前、日本が安楽死を認めていない理由は、命の尊厳がどうのとか、生かせる命を意図的に失わせるなんて道徳的にどうなの?っていう論点や、もらえるはずだった年金は?とか本人に判断能力がない場合、家族がその判断を勝手にしていいのか?とかのルールが難しいという論点にあると思っていた。安楽死を認めることそのものが残酷だから難しいと、思っていた。しかし現在の反対派の主流な意見はどうやら違うらしい。もし安楽死を認めてしまったら、ALS患者で延命している人が「なんで安楽死しないの?」と攻撃されるようなことになりかねないというものらしいのだが、これはどう考えても本質的ではない。

だって、認められていない今だってそのような攻撃はネット上で簡単に行われているではないか。誹謗中傷という形で。「何で死なないの?」と有名人などに攻撃する人がいるのは周知の事実だ。これは本人が寝たきりだろうがどうだろうが、断固として許されない。自殺をした人は罪には問われないのだから、法律で禁じられているから出来ないと言い返すことができない。かと言って「自殺は犯罪」という法律は作られる事はないだろう。まぁ今の日本でそんな法律作ったら違う意味で大バッシングなのだろうが。つまり、安楽死を認めようが認めまいが、このとき問題なのはそんな攻撃をしてくる奴の方にあるのだ。そこらへん過度に反応してしまうと、人権を守るために人権を制限するという、凄く矛盾したことが起きる。

別に命に限ったことではない。貯金している人は何で余っているお金を募金しないの?とか言われるかもしれないから募金を禁止するという流れにはならない。自分のことを自分で決める権利が侵害されてはいけないし、その中に自ら命を断つ権利があってもいいだろという、ただそれだけの話だ。

延命治療は残酷だという感情があることを、多くの人の知ってもらいらい。

差別をなくそう(?)

最近、ついったーで黒人差別に対するデモ等の動画やツイートが結構流行っているように感じる。恐らく、日本人は国外に出ず、民族も一つしかないといって差し支えないので、こういった問題には疎いのだが、それでも、「何か社会に問題があり、自分たちがそれに不満をも感じているなら行動をしなければならない」という主体性の大事さみたいなメッセージを感じることはできるだろう。

同様に、「女の子らしい」という言葉についての、気持ち悪さみたいなことも、最近はやった気がする。レイシズムフェミニズムのような思想に関する、もっと言うなら、多くの人間が当然のように持っている意識の問題だからこそ、その話題に乗っかる人が多いし、流行るのでしょうね。

さて、ここがことの本質に感じる。差別というのはそれが人種であろうが性別であろうが、何かしらの「差」を理由に、それ以外の個人の特徴を評価しないということになると思う。その「差」となる特徴を持つ集団を卑下して、尊重しようとしない。まるで犯罪者を扱うように。

この本能は生物として仕方がないことだ。知的生命体としての学習そのものといってもいいと思う。ある特徴を持っているものが、自分にとって不利益な特徴を持っていることが多い場合、人間は”その特徴を持つ人間とは関わらないようにしよう”あるいは”排除しよう”と考える。経験的なものもそうだし、推理や知識によるものもそうだ。

例えば、女性が卑下されてきた背景には、女性は労働力として男性より劣っているためだし、黒人が卑下されたのは、白人のほうが文明の発達が早かったため、黒人のほうが弱く頭が悪いとされた(鉄 銃 病原菌とか読むと良い)からだろう。だが本当は女性が男性より向いていることもあるし、白人より黒人のほうが向いていることもあるというのは、現代人なら当然わかっている事実だろう。

それでも、そういった事実を認知しないと、ただ常識を否定するだけになってしまう。男尊女卑反対!!みたいな意見の良くない部分はそこだ。そういった理論的な考えが介在しないように見える、ただ自分の評価が悪いのが社会のせいだみたいな意見は、気持ちが悪い。

では逆に、差別することは絶対悪なのか。恐らくそんなことはない。犯罪者が社会的に生き辛くても、”刑期後の犯罪者にまともな人権を!!”なんて言う意見に多くの人は賛同しない。 犯罪をしでかした人間が将来同様のことをする可能性があるというのは、されてしかるべきだ。それくらいの覚悟をもって犯罪をしてほしいものだ。また、力仕事をする職場で能力給が払われているとしたら、必然的に男性より女性のほうが平均給料が低いだろう。当然だし、これについて喚いても仕方がない。

そして、差別というのは、常識の中に紛れているからこそ、社会問題として指摘される。つまり、差別は世の中にいくらでもあって、その中で自分に関係するものについて、差別されたことを怒るという構図となるのだ。ある個人が不当な評価を受けているならそれは差別ではなくただのいじめだし、共感して立ち上がる人なんているはずがない。

ただ、そうした差別の被害を受けた人は、他人を差別しないと思われがちだが、本当はそんなことはなく、また他人を不当に脳死で評価することがある。それを全員が認知するのは厳しい。結局、個人的な感想としては、環境を変えるのは、同じ境遇の人間を助けたいという熱い意志を持っている人がすることで、自分や近しい人間だけを守ろうとする人は、そんなことをするよりも、自分の能力を高めて、周りではなく自分を変えて、否が応でも認めさせるほうが生産的だ。 個人のためと言うより世界のために。