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最近メンタルがしんどい

前回の記事内容からしてもお察しのとおりかもしれないが、最近ちょっとメンタルがしんどい。 多分人に会っていないのが原因なんだが、やはりメンタルがしんどくなると、自己分析が捗るんですよね。色々考えたことがあるからいったんまとめていきたい。

最近、他人(特に同世代)と比べて自分は「行動規範が高すぎる」のではないかと感じている。実は僕の友達の精神をマジなほうで病んでいる友人が最近季節性鬱をこじらせて、その人と話をしていた後に気付いたことなのだが、どうやら人間、行動規範が高すぎると、自己肯定感が下がるらしい。

ちょっといい言葉が思いつかなかったから行動規範という言葉を使っているが、どういうことかというと、「ちゃんとしている人はこういう場面で、こういう行動をするだろう」とか、「こういうことは、こうあるべき」というあるべき姿が、普通の人の水準より高い気がするのだ。ようは育ちが良いのだと思う。そのくせ、反骨精神があるというか、真面目にこなしていけるほど強くないというか、ようはその「あるべき姿」に自分がたどり着けないのである。これは、それをする能力があるかどうかというより「努力できるか」にかかっており、あるべき姿に成れないことは、すべき努力を怠っているように感じてしまう。そのため、そんな頑張っていない自分を評価できなく、メンタルが病むのだ。人によって、努力できる程度というのは得手不得手の範疇であって、先天的にそんなことができない人だっているのに、自分以外の多くの人間がその規範に従っていると錯覚し、ちゃんとできない自分を責めてしまっている。

僕の好きな作品に化物語というものがある。そこに登場する羽川という人物は、自身の中にある規範のレベルが高すぎるが、それを自分を殺してこなしていけるだけのバイタリティがあるがゆえに化け物扱いされて、実際に化け物になってしまったわけだが、多分これは普通の人はそんなことは不可能である ということの裏返しであるのだ。

多分そうなんだとは思う。実際自分の周りに自分の思う完璧にあるべき姿である人なんていない。でも、自分の周りがダメな人間なだけであって、それはただの類友なだけで、多くの人間が、そうではなく自分の思う「最低限あるべき姿」を守っていない保証はないのだ。 少なくともそう思い込んでしまっていて、教え込まれてきてしまったから、深層心理でそれを否定することはできるはずがないのだ。自分は自分の中にある規範をまったくもって守れていないからこそ、他人の素行には優しいのかもしれない。この性格が共通しているがため、さっき話に出てきた精神を病んでいる友人と自分が仲良くできているのかもと思う。

彼も僕も、譲れない部分はある。おおよそそれは「誠実さ」といっていい範囲なのだが、それでも、それだからこそ、それ以外の部分が寛大で、多くの人から優しいと評価されているきらいはあるし、人のために何かしてあげたい、自分本位になることで、他人を傷つけてしまう可能性を排除しないと気が済まないといった性格になってしまっている。結局背負いきれずこうやって精神を病むのだ。 彼と僕の違いは物理的な体の強さと、家がより厳しかったかどうかだけで、生まれながらに持つ気質的な部分からとても似ているように思える。生きずらいことには変わりないが、僕はたまたまそれを発散できるだけの多くの依存先を持ち合わせて、彼にはそれが足りなかっただけに過ぎない。

この話の発端となっている部分はほかにもあって、最近ちょっと仕事辛いなって感じていて、その話をある友人に色々話をしたら「まじめに仕事してるね」って言われたんですよ。この時に、そういえば今までいろいろなところで、真面目だと評価されてきたことに気付いたんです。別のコミュニティの人から同じ評価を受けているということは、つまり自分は真面目なんだなと、そう思ったわけです。ここで問題なのは自身への評価とのギャップで、これが自分のものの考え方が他人とずれていることの裏付けになってしまったという点なんですよね。これはそれ自体が生きずらさの原因でもあるし、その内容もたちが悪かった。

少年院に来るような人も「まじめな人ほど真面目に不良をしてしまう」という話を聞いたことがあるが、真面目であることは必ずしもいいことではなくて、自分の身を滅ぼしてしまうだけの可能性がいろんな方向にあるということなんだと思う。

だから、僕は真面目な自分が嫌いだ。自分がもっと真面目でなければ、こんなにいろんなことを考えこんだり、悩んだりする必要はなかったと思うから。どんなことにも真面目に取り組もうとしてしまうこの性格は恐らく死ぬまで矯正できるものではない。恐らく多くの人は「大人になる」ことで真面目さをそぎ落としてこれたのだと思うのだが、僕は大人になることをかなり前に諦めているので、こういうところが、「素直」とか「子供っぽい」とか言われる要因の一つのようにも感じる。