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人の物の考え方

 私の長らくの悩みの一つに「他人と同じ価値観を持っていないため、理解されない」というものがある。具体的にどんなことで他人にいろいろ言われてきたかはちょっと無視して、逆に自分は自分なりに「思考の違い」をある程度の予測も交えつつ考え、他人の考えを理解しようとしてきました。ただ、多くの人間は「自分の価値観に沿わない考えを絶対的に排除する」という思考回路を持っているように感じます。こういうやつのことはバカだな~と割り切るようにしているんですが、結局自分より偉い人間がそういう思考を持っていることがあるので、言い方が悪いけど「言い負かす」必要もあると。で、どうしよう の前に、ちょっと哲学的な考えに至った。

「人間の思考の多様性はどこから来るのか」

ものの考え方というのは一例で、何かにおける「センス」といわれるようなものもそう。例えば、初めて戦略的で小手先の技術も必要なゲームをやらせて、ある程度時間がたった時に「どれくらい上手になってるか」というのは、その人の脳の作りに依存するもので、まったく同じ方法であっても、従事している時間が同じでも、個人によって差が出てくると。

この思考の違いはどこから出てくるのか。もちろん環境によって後天的に決まるものが大きいとは感じる。例えば自分が今まで似たような経験をしたことがあればそれに当てはめて考えることができるだろう。しかし、そうじゃない先天的なものも多少なりあるのだろうか。

だとしたら、人は生まれる段階で「頭のいい奴」「馬鹿な奴」「何かに向いている奴」が多少決まってしまうということになってしまうのだろうか。障害といわれる一部の例外は、ただの例外なのか、それとも段階的なものの一定ライン以下を指しているのか。

結構昔に行われた実験に「人間の子供とチンパンジーの子供を同時に育てる」というものがあって、結果は「人間の子供の脳の発育が著しく低下、多少大きくなってからも周りとなじめず早死にした」というものだった。今となっては人間の命を踏みにじるようなこんな実験はできないだろう。親も許さないし、産んで死ぬようなことも現代医学では結構起きにくくなっている(と思う)。この実験の面白いところは人間の脳みその作りは後々環境によって大いに変わるということである。

じゃあ先天的に変わるのだろうか。変わるとして、脳みその内部構造や遺伝子情報、成分はどう違うのか という果てしない思考に至ったと。

結局どこまで行っても自分の中で「正しい」というのを決めるのは自分です。ただそれと他人を否定することは違い、理解する努力はしてほしい